名著を読む/ 『プロタゴラス』 / 『性の歴史V 自己への配慮』 / 『哲学入門』

名著を読む

名著を読む、では、名著と言われる本、あるいは名著であろう本を読んだ感想をご紹介いたします。

 『プロタゴラス』を読んで  2015年11月14日公開

『プロタゴラス』という本を読んで、最も感動した場所は以下のところである。 『プロタゴラス』によれば、徳とは、知恵、正義、勇気、敬虔、節制(分別)の5つのようです。そしてその逆が、無知、不正、臆病、不敬虔、放埓の5つです。プロタゴラスとソクラテスの違いに勇気が挙げられます。プロタゴラスは世には並はずれて不敬虔、不正、放埓、無知な人間でありながら、ただ勇気だけはとくに衆にぬきんでているというような人々がいると言っています。それにたいしてソクラテスは、勇気がある人々というものは、恐れをいだく場合があるとしても、醜い恐れ方をするようなことはなく、向こうみずになるときも、その向こうみずは決して醜くない、これの反対の臆病な人々にしても、蛮勇を発揮する人々にしても、気の違った人々にしても、そうした連中の恐怖や向こうみずは醜いものではありませんか、しかるに、醜悪な向こうみずさを発揮するというのは、ほかでもない、愚かさと無知のしからしめるところではありませんか、とこたえています。もちろん、これ以外にも感動したところはあるがやはり一番はここである。ところで『プロタゴラス』はプラトンの初期篇であり、ソクラテスの思想であろう。
 *『プロタゴラス―ソフィストたち―』(プラトン著、藤沢令夫訳、岩波書店)を読んだ感想です。

 『性の歴史V 自己への配慮』を読んで  2016年3月3日公開

『性の歴史V 自己への配慮』を読んだ。東京都渋谷区が2015年11月5日、同性のカップルを結婚に相当する関係と認める「パートナーシップ証明書」の発行を始め、女性2人のカップルが第1号となる証明書を受け取り、女性の同性愛がニュースになったが、古代ギリシャにおいて同性同士の性交は自然に反した行為とされ恥と考えられていたようである(女性同士の場合は悪だと考えられていたようだ。)。古代ギリシャにおいて男女ともに婚前交渉や婚外での性交はすべきでない、することは恥という考えがあったが、特に女性にはその考えが強かった(女性の場合は悪と考えてよいと思われる)。なぜなら古代ギリシャにおいて妻との性交の目的は生殖であったからだ。子どもを育む母体こそ重要だと考えられていたからであろう。そのため姦通法というものがあった。日本でも戦後まで姦通法は存在した。姦通法とは、他の男と密通する既婚女性を、既婚女性と密通する男性を姦通の理由で有罪とされるのである(しかも結婚していない女性と交渉を持っている既婚男性は有罪とはされない。)。ところで古代ギリシアのアテナイでは、姦夫(夫のある女性と性交した男)に対して、二十日間大根を肛門に押しこむなどの恥辱的な刑罰が科されたと載っている。(『ギリシア哲学者列伝(上)』岩波書店 p411に、アリストパネス『雲』一〇八三行参照と書かれている。)。
  ところで綿矢りさの小説『ひらいて』には、高校生の女性同士の性交の場面が書かれている。しかもこの主人公の女性は好きでもないのに、ただ振り向いてもらえない好きな男の彼女だからという理由で同性への性欲がない(つまり異性性欲者)にもかかわらずこの女性と性交したのである。『性の歴史V』に書かれている古代ギリシャの価値観に対する矛盾である。古代ギリシャの価値からすると『ひらいて』で書かれている女性同士の性交という自然に反する行いをしたことは悪、女性同士が婚前交渉をしたということは悪、生殖につながらない無用な精液を消失することは恥(古代ギリシャでは、性行為は危険な行為と考えられていた。また未成熟な身体の成長を阻害させるということからも考慮すべきであろう。中国医学では、女性は21歳まで成長し、男性は24歳まで成長するとされている。アリストテレスにおいても成長と年齢に関しては中国医学とほぼ同じような説である。)、愛に拠らない性交を行ったことは悪とされるであろう。
  ところで『性の歴史V』と『ひらいて』はともに新潮社から出版されているものである。先日、綿矢りささんの編集担当の方に聞いたのであるが、新潮社には哲学書専門の編集者はいないという。つまり新潮社では編集者は、小説、哲学関係なく取り扱っていると考えていいと思われる。逆に言えば新潮社の編集者は、小説も哲学もある程度理解しているということであろう。ここで思ったのだが、『性の歴史V』と『ひらいて』との価値観の矛盾を新潮社の編集者の方々はどう思っているのだろうかということである。そして、また『ひらいて』に対して『性の歴史V』は影響をどれほど与えているのだろうかということである。『ひらいて』が書かれるうえで『性の歴史V』の影響を全く受けていないつまり小説を書く上で全く参考資料として使われているのか、いないのか、どうなんだろうな〜とふと思ったのである。                     
 *『性の歴史V 自己への配慮』(ミシェル・フーコー著、田村俶訳、新潮社)を読んだ感想です。

 『哲学入門』を読んで  2016年3月3日公開

『哲学入門』(藤本隆志著 東京大学出版会)を学生の時、教科書として使っており、この本内、全体的に、線が引いてあったり、書き込みがあることから、ある程度、全体的に読んだのだろうと思われる。しかし年月を経たので詳細には覚えていなかった。したがって学生の時から年月を経たので私の人格も変わり、学生の時なら理解できなかったところも理解できるようになった部分もあるだろうし、ということから学生の時とは異なるであろうが、今回再び読んで、この本の感動した部分を述べようと思う。ただし、ある程度、具体的な哲学の内容に入ると、哲学を知らない人には、面白くないであろうし、また引用にしては長すぎるので、著作権の問題もあるので、具体的な哲学の内容には触れず、表面的なことだが重要だと思われるものを引用させていただいた。以下が、私が読んで、最も感動したところである。この本に書いてある具体的な哲学の問題についての内容を知りたい方は、自ら手に取り読むことをお勧めいたします。
 
  哲学はこのような科学知の特性やその構造を含め、あらゆるものごとを批判的に考察しようとする。(P6)
 
  日常生活を成り立たせている常識的・科学的宇宙観に留まっていることができるのであれば、ことさらに哲学する必要などない。変転する常識通り、あるいは科学知の教える通りに、世界空間内で位置のみ異なる代替可能な生命体として生きるだけでよい。(P9)
 
  哲学は優れて主体的な営為なのであり、原理的にこの〈私〉を除いて哲学する者は存在しない。(P10L9)
 
  よく生きることは必ずしも特定の民族の言語や社会通念に忠実に生きることを意味しない。自分が事実上慣れ親しんできた個別の文明を自分の運命として引き受けながらも、それに対決して、それを突破しあるいはその中に住む新しい意義を創造しようとすることこそ、ゴータマやソクラテスやイエスのような「義人」の果たしてきた業積ではなかったろうか。(p45)
 
  自分の親しんできた狭い日常性を乗り越え、そこに住む自分自身をも対自化して(つまり否定して)、新たな非日常性の中で新たな〈私〉の世界を創造していく者のみが、世界や自分の意味を問いうるのである。(P45)
 
  これを「非時間的永遠(atemporal eternity)」というとすれば、いま・ここで最もよく生きる者が永遠の現在を生きるのである。(P81)
 
  現実にはどこにも存在しない民主社会や共産社会を夢み、その実現に努力することこそ人間の全体のしかるべきありかただと、言われるようになる。(P151L15)
 
  問題は、まさに近現代人の執りがちな、そうした直線的志向による直線的行動形態にある。(P152L15)
  *直線的な行動形態とは、時間が直線的に流れるという近現代の進歩史観によるもので死ねば終わりというもので、つまり人生一度というものである。これに対して近現代以前は、時間は円環的に流れるとされ、死ねば終わりではなく転生して円環するという循環史観(円環史観)が主流であった。
 
  アメリカの西部開拓史を思い起こせば、当時のヨーロッパ社会にあってはひたすらその抑圧からの「解放」を求めていた人々が、いったんアメリカ大陸へ移住すると、先住者の頭越しに、自分たちにとって「好ましい」「自由な(無料の)」楽園を西方の未開地に求めるようになった。「リバティー」から「フリーダム」への転換が行われたのである。そして、その西方への進路を邪魔する異民族や野獣は、まさしく理想を阻む障害物として排除され、自然は支配されて、アメリカの富が「合理的に」蓄積されることになる(アメリカ大陸のみならず、たとえば帝政ロシアのシベリア経略、和人の蝦夷地進出などに際しても、同様の歴史的な経緯があったはずである。)。(P154)
 
  たとえば日々冗談を言い合い、嘘を楽しみ、相手を揶揄し、虚実を逆さに生きようとすれば、特殊な社会的甘えの中でそのように生活していくことはさほど困難ではない。しかし問題は〈私〉自身が果たしてそのように生きることを選択できるか、そのもたらす諸結果を己に引き受けることができるか、という覚悟性にある。(P188L16)
 
  本書で筆者が心掛けたのは、〜現在学生諸君がもっている科学的・社会的常識をできるだけ攪乱して、自分の身に起こるあらゆるものごとを再吟味してみなくてはどうも危ないぞといった危機意識、ついには自分でそういう再吟味を試みてみようとするような問題意識ないし情熱を掻きたてることであった。(P208)
 *『哲学入門』(藤本隆志著 東京大学出版会)を読んだ感想です。

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