理想ジャーナル(ブログ)3/ 仮説 日本人が中国人に比べて異常に脾胃(胃腸等)が弱い理由 日本民族は存続できるのか? 第一回(全三回) / 仮説 日本人が中国人に比べて異常に脾胃(胃腸等)が弱い理由 日本民族は存続できるのか? 第二回(全三回) / 仮説 日本人が中国人に比べて異常に脾胃(胃腸等)が弱い理由 日本民族は存続できるのか? 第三回(全三回) / 主体的に生きることこそ人間だ。(機械に主体性はない。) / 反科学教育こそりっぱな人間をつくる。 / 性の問題と医学と科学(性の医学は一部のおかしな医者によって作られたものではない。)。 / 硬派な生き方と軟派な生き方。 / 官僚という人間(に対する国民への洗脳) / 中医学から見た、過度な内体労働による疲労の結果により生じる身体への弊害 / 孝の哲学 

理想ジャーナル(ブログ)3

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 仮説 日本人が中国人に比べて異常に脾胃(胃腸等)が弱い理由 日本民族は存続できるのか? 第一回(全三回)  2015年3月25日公開

今更、言うまでもないが、改めて言うと、日本において古代から江戸時代までの医学の主流は、東洋医学であり、西洋医学が主流となり、東洋医学を公的な医学から追いやったのは明治以降である。つまり日本において古代から江戸時代まで経験的につまり実証的に用いられてきて経験則が十分なのが東洋医学なのである。それが明治政府によって西洋の科学万能主義を盲信した結果、西洋医学的に証明されなければ、それは真理ではないとされてしまったのである。漢方薬において粳米の玄米は脾・胃の気を与える補中益気(中焦とは脾・胃のことである。)の薬であった。気の中のメは昔は米であったことからもそれはわかるであろう。中国の医学書、黄帝内経において既に脾病として脚気は載っているのである。しかし西洋盲信の明治政府は、明治時代になって白米を食べることを普通にした結果、脚気で死ぬものが現れたが、陸軍上層部とそれを思想的に支えた東京大学医学部の中枢部は、漢方医が知っていた脚気に麦飯が効くという漢方の説を容易に受け入れなかった。なぜなら西洋医学的つまり科学的にはそんなことは証明されていないからである。陸軍軍医であった森鴎外は麦飯の脚気予防効果を排撃した代表的な人物であった。鴎外は「君も麦飯迷信者の一人か、之(これ)は学問上同意出来かねる」と言ったそうである。そのため鴎外のこのような脚気に対する病因探究に関して、主体性を喪失し、脚気を軍隊ではやらせた責任はまぬがれることができないというのが、現代医学の定説である。明治以降の西洋医学盲信の結果、人々が白米を常食するようになり、脚気患者が現れ、日露戦争時には戦死によってよりも多い人命が脚気によって奪われたほどであった。
  本当のことを言えば、ちゃんとした漢方医ならば粳米の玄米を食べれば脚気が治ることを知っていたはずである。現在でも西洋医学においては玄米は胃腸の消化に良くないので白米の方がおいしいし、健康的であるとされているが、東洋医学では、粳米の玄米こそ脾・胃を強くする薬なのである。そしてそれは経験的に証明されてきたのである。
 
 
  *「科学論入門」(佐々木力著 岩波書店1996)p163によれば、日本で脚気で多くの死亡者を出した時、インドネシアでベリべりという名前で同様の症状が観察できたのを例外として、米食中心とする日本以外ではまず見ることができなかったため、西欧の医学者は脚気研究に取り組むことはほとんどなかったそうである。
 
  *「科学論入門」(佐々木力著 岩波書店1996)p163には、板倉聖宣の労作『模倣の時代』(1988年)が紹介されており、彼は経験から学ばず、西洋医学の当時のパラダイムを権威主義的に信奉しつづけた鴎外らの融通のきかない態度を「証拠より論」という言葉で形容している。人口に膾炙した格言「論より証拠」を逆にした精神的姿勢だというのである。実際、科学史では一般に事実の経験的確認が先立ち、理論はあとから生まれるものなのである。実は事実も理論に従属していることが普通であるから、問題はそう容易ではないと見えるかもしれないが、より根源的には実践や技術が先に来、その理論的な理由づけはそれらに従うものなのである。と書かれている。

 仮説 日本人が中国人に比べて異常に脾胃(胃腸等)が弱い理由 日本民族は存続できるのか? 第二回(全三回)  2015年3月25日公開

日本人は、中国人に比べて脾胃(胃腸等)が弱いとされ、そのため日本人の飲める漢方薬は、中国人に比べて二分の一か三分の一の量であるとされる(しかし現実は、中国人と同量の薬を飲めるものもあれば、三分の一どころか全く飲めないといっていい生薬がある(と思われる))。その理由は、日本と中国の気候・風土の違いで、日本は中国に比べ湿気が強いので、そこで生まれ、生活している日本人の体も湿気が強いためとされる。だから日本人の脾胃(胃腸等)は中国人に比べ湿気のせいで弱いのだとされるのである。
  私は最近までこの説を信じ、この説のみで日本人の脾胃(胃腸等)が中国人に比べて弱いのだと考えていたが、最近、漢方薬(生薬)を飲んで、この理由だけではないのではないか?明治以降、日本人が玄米を食べてこなかったことも大きな要因なのではないかと思ったのである。
  「科学論入門」(佐々木力著 岩波書店1996)p163によれば、日本で脚気で多くの死亡者を出した明治時代、インドネシアでベリべりという名前で同様の症状が観察できたのを例外として、米食中心とする日本以外の国ではまず見ることができなかったとされるが、それはやはり日本以外の国では玄米を食べていたからではないか?と思うのである。ところで私が日本人の脾胃(胃腸等)が中国人に比べて弱いのは気候・風土の違いだけでなく、明治以降、日本人が玄米を食べてこなかったことも大きな要因なのではないかと思うに至ったのは漢方薬(生薬)を飲んだからであると書いたが、その薬は、行気薬(簡単に言うと気の巡りをよくする薬 例えば、紫蘇、陳皮(みかんの皮)、肉豆く(ナツメグのこと)、柴胡(日本の病院で出される漢方薬の多くに入っている。日本の病院で最も有名な行気薬)、 枳実(ダイダイ・イチャンレモンなどの幼果)、枳殻(ダイダイ・イチャンレモンなどの成熟果実)、当帰、川きゅう、厚朴、香附子、木香、姜黄(日本で習慣的にウコンと呼ばれているもの)、欝金(中国で一般に言われるウコン)、薤白(ラッキョウのこと)、胡椒、麦芽、大蒜(ニンニク)、薄荷等)と破血薬(簡単に言うと血栓を取り去る薬 例えば、桃仁(桃の種子)、紅花、、姜黄(日本で習慣的にウコンと呼ばれているもの)、鼈甲等))である。行気薬と破血薬は正気を損傷するとされる。正気=真気=元気=原気(中医大辞典より)で簡単に言うと原気とは腎の陰陽を源として生じる体全体の力つまり五臓六腑等の力である。つまり行気薬(簡単に言うと気の巡りをよくする薬)と破血薬(簡単に言うと血栓を取り去る薬)を飲むと正気を損傷するので気虚(陽気不足者つまり熱の不足者)、陰虚者(体液不足者)には慎重に用いなければならないとされ、虚弱者には人参、白朮等の薬を一緒に飲んで行気薬と破血薬で消耗される気を補って傷つかないようにせよとされており、それをしても日本人には、中国人と圧倒的に胃腸の強さが違い、行気薬と破血薬は日本人の胃腸には湯剤(生薬を煎じて飲むこと)では飲めないと私は判断したのである。例えば、カレーやハンバーグに入っているナツメグ(肉豆く)は中国人にとっては補脾陽薬とされており、胃腸等を温めて、熱を奪うようなことはないとされているが、日本人の私が湯剤で飲む限り、補脾陽の効果つまり胃腸等を温めて、熱を奪うようなことはないという効果はなく、一方的に胃腸等の陽気を奪うのである。そして白朮と一緒に飲んでナツメグ(肉豆く)で消耗する気を補えるか飲んだが、現在のところナツメグ(肉豆く)1に対して白朮がどれだけ必要なのか数値化不明なのである。紫蘇も試したが、数値化不明であった。また中医学の方剤には枳朮丸というものがあり、一般に中国では枳実1に対して白朮2の方剤で気血の巡りをよくしながら脾・胃(胃腸等)を元気にする薬なのだが、日本人の私が、枳実1に対して白朮50を湯剤(生薬を煎じて飲むこと)で飲んだが、脾胃気虚が生じたのである(枳実は散剤、丸剤であってもどうしても必要でなければ飲むべきではないとても危険な生薬だと私は考えている。)。
  したがって病院から漢方薬(エキス剤)をもらって行気薬と破血薬を飲んで脾胃(胃腸等)に違和感がある人は注意し、なるべくなら飲むのをやめることをお薦めする。それより日本人にはなるべく行気薬と破血薬を飲まないことをお薦めする。なぜなら日本人の脾胃(胃腸等)には耐えられないからである。日本の医者のほとんどは漢方を非科学的と考え、経験的な生薬の効果を信じず、化学的分析結果のみ信用している。したがって言うまでもなくこの生薬は中医学では経験的な実証からこういう効果があるなどと知っている医者は少ない。医者は化学的に漢方方剤を分析した結果得られたデータ―を元に病名治療をしているだけである。したがって行気薬と破血薬を飲むと正気を損傷するなんてことを知っている西洋医は本当に一部にすぎない。したがって西洋医から漢方薬をもらった人は、その中に、行気薬と破血薬があるかないかよく調べて注意して飲むことが重要である。
  明治時代、日本以外の国では一部の例外を除いて脚気が観察できなかった理由を考えるとやはり日本人が明治時代以降、白米を食べるようになり、脾胃が圧倒的に弱くなり、そのため行気薬と破血薬が飲めなくなったのではないかと私は考えるのである。私の飲んだ経験から導いた仮説である。

 仮説 日本人が中国人に比べて異常に脾胃(胃腸等)が弱い理由 日本民族は存続できるのか? 第三回(全三回)  2015年3月25日公開

第二回までで現在の日本人が、明治以降玄米を食べなくなり、白米を食べ続けた結果、脾胃(胃腸等)が弱くなり湯剤で行気薬と破血薬が飲めなくなってしまったことを述べた。しかしそれではこのことがとても絶望的で、なぜ日本民族は存続できるのか?とまでいうのかといえば、それについては東洋医学の思想を語らなければならない。西洋医学を信じている人にとっては西洋医学があれば問題ないと考える人がいるかもしれない。がとりあえず書くことにする。
  東洋医学とは、神を信じ、神は人間に病気を治す薬を生薬として与えているはずであるという考えの元、存在している。神は人間の体を治療するのに機械が全て必要なように、人体を複雑には作っていないという考えの元、機械なしで基本すませられるという考えから医療を行っている。したがって神が与えたであろう病を治すための行気薬と破血薬が飲めなくなってしまった体に人間が神から与えられた人間の体をしてしまったことは絶望に値し、行気薬と破血薬が飲めなくなるということで病を治す手段が減ることを意味するのである。また脾胃は後天の本と言われ、飲食物を消化吸収、運化し元気を提供する元であり、「脾胃を内傷すれば、百病これより生ず」とされるのである(脚気は百病の一つである。)。その脾胃を日本人は自らの手で白米を食べるという反自然的な行為をして弱くしてしまったのである。
  これに対して西洋医学とは、神は科学的(物理学・化学的)に証明されておらず、魂もデカルト主義者に物理法則から否定されたように(ちなみにデカルトは神も魂も存在するとした。)存在しないとする考えの元、神がいるかは知らないし、ましてや神が病気のために薬を人間に与えたかどうかは知らないが、人間は物理学・化学という人間が発見したものによって自然を研究し、化学の単一成分を取り出して、それを薬として人間に与えることで有効な効果が得られているのが現在の西洋医学であり、したがって西洋医学においては、東洋医学のように全ての病に対して薬を神が与えているなどとは考えないので、現在においても西洋医学があらゆる病に対して有効な薬を発見しているなどということはありえない。やがて西洋医学の化学的な薬によって全ての病が将来なくなるとも断定できない。これが西洋医学の真実であり本音である。
 
  *陰陽虚実を考える東洋医学と細菌・ウィルス等病原菌説を取る西洋医学の違いである。そのため漢方は根本治療と言われ、西洋医学は対症療法と言われる。

 主体的に生きることこそ人間だ。(機械に主体性はない。)  2015年3月25日公開

一寸の虫にも五分の魂と言われるように、魂と電気は異なる。仮に死体の死因となった部分を臓器移植して機械のように部品交換して電気を通したところで人体は復活しない。人間は魂によって動いているからである。ペースメーカーのように、当然ペースメーカー以上の力が必要だがそのような機械を人体に埋め込めば意志のないゾンビぐらいにはなれるであろうが。肉体は腐るのでゾンビでも一時であろう。
  機械化というマニュアル化した生き方は受動的な生き方である。主体的に生きることも大切で、機械のようにマニュアル化、受動化された生き方ではいつか破滅するということは間違いないであろう(例えば以前文章で書いた、 脚気に対する森鴎外ら西洋医の態度がそうである。)。情報化され、他人の知識ばかりをとりいれ(受け身で、人に従う、詰め込み教育が得意であることはまさにこれが官僚気質であり、知的エリートの人間の多くはこれに属するであろう。)、自分の感性、知性を働かせない人間はロボットと一緒ということである。これを書いていて気づいたのだが、これこそまさに我思うゆえに我ありのデカルトの哲学である。

 反科学教育こそりっぱな人間をつくる。  2015年3月25日公開

デカルトは魂の存在を信じていたが、物理学者による運動量保存則の発見により、その考えはデカルト以後のデカルト主義者によって否定された。ところで性欲説で有名なフロイトはエネルギー保存の法則から性行為は無害であり、むしろ性的欲求不満こそ心身の健康によくないので性行為して満足せよというのが、フロイトが考えた性行為無害説である。ところでフロイトは無神論者で、宗教嫌いであったことは有名なことだったようである。このことからフロイトはおそらく、デカルトの信じていた魂の存在を否定した運動量保存則は当然知っており、フロイトの性行為無害説には、エネルギー保存の法則だけでなく、運動量保存則の影響もあったのではないかと思うのである。それはフロイトが無神論者だったというだけでなく、エネルギー保存の法則と運動量保存則の共通点である。その共通点は、エネルギーも運動量も外界からの作用つまり外力が作用しなければそのエネルギーあるいは運動量は維持され、時間が経過しても変化しないというのがこの法則の共通点である。この保存則を人間個人にあてはめると、ただし私はデカルトの信じた魂の存在を信じているし、またフロイトの性行為無害説を信じていないのが前提である。とすると人間はそれぞれ異なる魂を持っている存在である。したがって外力の作用がなければ保存則からその魂のレベルを維持したまま成長するのが現実である。しかし人間社会には外力である教育やマスコミ等が存在する。そのため、魂のレベルが落ちている人間が出ているのではないかというのが私の考えである。なぜなら現在の学校教育・マスコミは科学至上主義(万能主義)の元、行われているからである。それはつまり人間には魂は存在しないので個人に優劣は存在しない、あるのはただの体質(気質)の違いだけで、それ以外は皆同じであるという考えである。つまり生まれつき魂のレベルが高く、倫理観のある人間などいない、皆、科学というものによって教育されればりっぱな人間になれるという思想の元なされているのだが、魂が存在しないとか性行為は無害で性的欲求不満こそ健康に悪いなどと考える科学を教えられて人間は立派な人間になれるだろうか?と思うわけである。こう考えると宗教や哲学に基づいた教育・マスコミこそりっぱな人間にするための方法ではないかと私は思うのである。
 
  *物理学者とフロイトの外力によりそしてその後の教育とマスコミの外力により現在では宗教の力は衰え、現在では宗教における性道徳を多くの人は知らず、そのため実行されず、男女間の人間関係の破たん等さまざまな問題が生じていると思われる。

 性の問題と医学と科学(性の医学は一部のおかしな医者によって作られたものではない。)。  2015年4月1日公開

性行為の無害化の嘘はフロイトに始まる精神分析学(今でいう西洋医学の精神科学)によってつかれたものである。したがってこの性の問題をフロイト等一部の精神科医等おかしな医者によって引き起こされた特異な問題と思う人がいるかもしれない。しかしそうではなくこの性行為の無害化の嘘は、現在に至っては西洋医学の全科学(全診療科)において、嘘とは認識されておらず、性行為の無害という考えは、まともな当然のこととして認識されているのであり、現在の西洋医学においてはちゃんと存在する考えなのである。なぜならこの性行為の無害の根拠は、エネルギー保存の法則という物理・化学の法則に基づいているからで、近代西洋医学とは、全般においてこの物理・化学の法則に基づいて考えられている科学だからである(科学とは分科の学つまり学問であり、学問の求めることは真理であるという考えがある一方、サイエンス(science)の意味での (自然)科学とは、自然法則を数式で記述することであり、その意味での科学とは物理学のことであり、そのため物理学のことを純粋科学といい、化学は今や物理学に基づく科学技術を使用して成り立っている学問である。したがって近代西洋医学においては分科の学としての学問としての真理探究の意味としての科学であるより、物理・化学の法則に従ってさえいれば真理でなくとも科学であるという立場なのである。これは科学史や科学哲学からみれば西洋医学とはおかしな学問と言われるであろうが、それが西洋医学においての現実なのである。
  ところで東洋医学は性行為の有害性を説いている。そしてその東洋医学の陰陽虚実の理論を受け入れている道教、儒教、神道(あるいは仏教もこの理論を受け入れていると言っていいかもしれない。)。つまりこれらの宗教は東洋医学に基づき性行為の有害性を説いている。同様にキリスト教(下の医学では)でも性行為の有害性を説いている。私が知る限りだが世界の宗教や医学で性行為を無害と言っている宗教や医学は西洋医学以外は知らない。そしてそれは「科学論入門」(佐々木力著 岩波書店1996)p163に書かれているように科学史では一般に事実の経験的確認が先立ち、理論はあとから生まれるものなのである。実は事実も理論に従属していることが普通であるから、問題はそう容易ではないと見えるかもしれないが、より根源的には実践や技術が先に来、その理論的な理由づけはそれらに従うものなのである。東洋医学や宗教における性行為の有害は言うまでもなく論より経験に基づくもの、論より経験(感性)を重視したものなのである。
  それに対して西洋医学はあくまで証拠、経験(感性)より論なのである。フロイトの性行為の無害化の嘘はエネルギー保存の法則に当てはめて正当化したものにすぎない。板倉聖宣氏が『模倣の時代』(1988年)で、明治時代、西洋医が、漢方医が知っていた脚気に麦飯が効くという漢方の説を西洋医学的には証明されていないとして受け入れなかったために多くの脚気患者を生み、死亡させたことに対して、経験から学ばず、西洋医学の当時のパラダイムを権威主義的に信奉しつづけた森鴎外らの融通のきかない態度を「証拠より論」という言葉で形容しているが、もともと西洋医学とはそういうものである。西洋医学のその論とは、物理・化学的であることであり、つまりは西洋医学の目的は人間を機械化することだからである。残念だが物理・化学の法則は万能ではないので、全てが物理・化学の法則が人体に当てはまるわけではない。その例が魂の問題である。したがって物理・化学の法則に過度に執着することは、医者にとっても患者にとっても害になることは言うまでもないことである。当然、西洋医学の面子にこだわり真理を愛さなければ、国民健康保険等の税金の無駄使いが生じることは言うまでもないだろう。とにかく第二の森鴎外にならないように西洋医には対処してもらいたいものである。
  例えば、日本漢方(一般的に日本で漢方は明治以降は公的医療から外された。それは西洋医のみで漢方医は存在しないことからわかるであろう。したがって西洋医が西洋医学的に分析された漢方薬を出す場合にのみ保険が適用されるというものになってしまった。一般的に日本漢方とは江戸時代までの日本の漢方医学のことである。)では桂皮(肉桂、シナモン)と桂枝を混同して使っており、日本で桂枝というと一般的に表すものは肉桂(ニッキ)であるシナモン、桂皮のことである。日本の病院で出されている漢方薬では桂枝を使うところに桂皮を使っているのが一般的である。これは日本漢方の歴史(桂皮と桂枝の混同)というのもあるが、西洋医学の医者は化学的分析に基づかないと信用しないのが一般的なので、化学的分析においても桂皮と桂枝に明確な違いを認識できなかったため、日本漢方に基づく桂枝の方剤に桂皮を使うという誤った方剤が日本では一般的に使われているのだと思われる。つまり化学的分析は人間の飲んだ経験的分析には及ばないというのが現実で、それは脚気の問題の際、経験を重んじる漢方医と科学的分析という論を重んじる森鴎外等西洋医の件で証明されているであろう。ところで日本漢方ではなぜ桂枝の方剤に桂皮を使うという過ちが生じるようになったかは、推測だが日本人の脾・胃の弱さのためである。(江戸時代までは粳米の玄米が食べられていたので現在よりは日本人の脾・胃は強かったが、中国人と比べると日本と中国では湿度が日本の方が強く中国人の桂枝を使う処方では脾・胃に負担がかかったため、桂枝の代わりに桂皮を使ったのではないかと思われる。本来は桂枝の量を日本人の脾・胃に合うように増やすべきなのが本当であろうが。肉桂(桂皮)の方が桂枝より脾・胃を温める力が強いのであるが、それ以外の効果は大きく桂皮と桂枝は違うので桂枝の代わりに桂皮を用いることは大きな問題となりやすい。)同様のことは生姜と乾姜の問題にも見られる。日本で生姜と言えば、乾燥した生姜のことをいい(これを中国では乾姜という、中国で生姜と言えば新鮮なひねしょうがのことである。乾燥させると水分が減り温める効果が高まるのである。)、日本で乾姜といえば、新鮮なひねしょうがを蒸して乾燥したものであり、中国には該当するものがない。)したがって病院で出されている漢方薬で生姜・乾姜と書いてあったら日本漢方で解釈するべきである。
  それから化学的分析から行気薬と破血薬は正気を損傷するということは認識できないであろう。同様に化学的分析から日本人の脾胃は中国人に比べて弱いので中国人に比べて通常の二分の一から三分の一しか飲めないとわかり、今病院で出されている漢方薬は、中国人の飲む量の二分の一から三分の一の量であるとはなっていないと思われる。つまり西洋医学的分析つまり物理・化学的分析は万能ではない、大事なのは経験的な、感性的な実証であることがここからもわかるであろう。それは粳米の白米を常食した結果、脚気になって多くの人が死んだ事実から粳米の玄米と白米の違い、つまり漢方の経験から得た知識と西洋医学の化学的分析から得た知識の正確さを比べればそのことがわかるであろう。
 
 
 
  以下は「20世紀どんな時代だったのか 思想・科学編」(読売新聞社編 1999)のp33から引用
  西部邁氏にとって《大衆人》とは、財産や地位によって規定されるのではない。それはいわば「精神的な階級」なのである。自分や社会、時代に対する懐疑を忘れ、己より優れた存在を認めず、現状を肯定的にとらえる人間類系のことだ。〜
  自らの時代や社会の価値観を疑わないのが大衆人だとしたら、現代日本でも至る所で見つけられる。とくに近代主義―――アメリカ的な自由・民主主義、過度の経済・技術主義、進歩史観、競争社会などに―――疑問を抱くこともなく、世論や流行に迎合する知識人の姿には我慢がならなかった。批判の矛先は知識人にも向けられた。
  「オルテガをはじめヨーロッパの大衆社会論は、結局のところ知識人論に帰結する。とりわけ日本の場合は、近代主義の先頭に立つ知識人こそが大衆人の典型といえる」
  現代の悲劇は、少数であれ、いつの時代にも存在した“今を疑う人”がいないことだと強調する。
  大衆の定義を練り直し、近代主義や知識人まで視野に入れた批判の切り口は鮮やかだった。また伝統や慣習に息づく「歴史の英知」の重要性を訴え続け、一定の共感を得た。一連の批判や考察は、京大の佐伯啓思教授のアメリカニズム論などにもつながり、論壇において保守派の一潮流をつくっている。
 
  *アメリカニズム
   佐伯啓思氏によると、産業主義と結び付いたアメリカ的自由・民主主義であり、モノによって人々の平等を実現しようとする文明のスタイルでもある。行き過ぎた場合には、あくなき利益追求や利己的な権利主張になりかねない、と氏は語る。
 

  近代主義に頼り、物理・化学の法則のみを信じ、漢方薬を実際に飲んだ経験からの結果よりも西洋医学の理論(物理・化学的分析結果)を優先させる姿勢つまり証拠より論を優先させる姿勢は、真理を愛しているとはとても言えず、現在の日本の西洋医のほとんどは今でも主体性のない多くの脚気患者を死なせた森鴎外ら明治の西洋医と変わっていないと思われる。西部氏の考えから見れば、西洋医こそまさに大衆人なのであろう。とはいえ、西洋医は覚えることも多そうでとても東洋医学までは手が回らなそうであるので東洋医学の専門医を養成することを考えた方が妥当な気もするのである。東洋医学をまともな医学だと国民に分からせるためにも。ただ現在は東洋医学をまともに扱える医師、薬剤師が少ないのが現実であると。

 硬派な生き方と軟派な生き方。  2015年4月11日公開

陰とは物であり、肉体も含む。それに対して陽とは魂である。したがって魂の真理に従って生きることは硬派な生き方であり、肉体や物質に従って生きることを軟派な生き方という。したがって肉体からそこに存在する本能、例えば性欲や闘争本能や闘争本能に基づく権力欲や物欲(この場合の物欲とは、単なる物欲(金銭欲も含む)から物の理についての欲望(そこには当然、物理学、化学等科学技術への欲求も含まれる)に従う生き方を軟派な生き方という。宗教や哲学では生きながらも肉体の存在を否定する傾向が強いのが事実である(1)。しかし人間は肉体を持っている存在なので魂に従って生きることは大事だが、肉体を無視しては生きることはできない。それに肉体がなければ人間とは言わないであろう。だから人間には魂も肉体も存在するので、時に軟派になったり、時に硬派になったりするのだが、なるべく硬派でいようというのが哲学・宗教の一般的なものである。しかし肉体(陰・軟派)の健康を無視した生き方=哲学・宗教の生き方ではなく、肉体(陰・軟派)の健康を考えた生き方=哲学・宗教の生き方であると私は思うのである。
  私はそれほど下品でないかぎりは恋愛(性欲の部分ではなく、愛の部分は真・善・美と言えるのではないか?)を歌った曲を全否定するつもりはないが、やはり芸術として愛するのは真・善・美を歌った魂に訴えてくる曲である。
 
 
  (1)例えば、『パイドン』でソクラテスは、哲学者は死人同然の生き方をしている。つまり、哲学者は魂そのものになること、すなわち死ぬことの練習をしている者である等と書かれている。その他の例として、キリスト教はキリスト教の理論に逆らうのなら、魂の正義に従って主張しているというのならばイエスと同じように死ぬ覚悟があるということだよなとガリレオ等に魂で生きることこそ真理なので肉体などどうでもいいつまり死などどうってことがないよなという思想の元、キリスト教の理論に反する者に死刑を与えようとしたが、おそらくイエスならガリレオのような真実を主張するものに死刑を与えたりはしないであろう。デカルトは魂や神の存在を信じていたが、デカルト主義者が物理学の運動量保存の法則からデカルトの信じた魂や神の存在を否定したのと同じで、真理を求める創始者とその創始者の権威に従って生きる能力のない権威主義者つまり真理を愛さない権力者では大きく異なるのが現実なのであろう。そもそも人間とは肉体+魂であり、なぜ人間である必要があるのか、なぜ人間は存在するのかと言えば肉体と魂の共生に何らかの意味があるからであろう。それに以上のようなキリスト教の権威、秩序、面子を重んじ、真理への愛、探究を無視した結果、現在の世の中である、キリスト教の権威は落ち、科学至上主義の世の中になったことを考えると、森鴎外の漢方医の経験から学ばず、西洋医学の当時の理論を権威主義的に信奉しつづけた主体性のない鴎外らによって多くの人間が脚気によって死んだことと同じでキリスト教の理論を権威主義的に信奉し続けて主体的に真理とはなんなのかとか考えようとせず、ただ権威には向かう者は許さないという官僚的な権威主義者であってそのためガリレオ等にキリスト教の理論に反する主張をする者にはイエスのように魂で生きることこそ真理なので肉体などどうでもいいつまり死などどうってことがないようだという思想の元、キリスト教の理論に反するものには、死刑を与えようとしたが、それこそ真理などどうでもよく、間違っていようがなかろうが権威こそ大事で権威だけを守ろうとする権力者の陰湿、陰謀な知性であって、結局、そのような間違った陰湿、陰謀の知性では一時は乗り切れても、長くは持たず、最終的に人間は真理を愛するものなのでそんな真理を愛さない権力者の権威は地に落ち、現在のように科学という真理を愛さないキリスト教の権威は落ち、ガリレオ等が主張した真理を愛する科学にとって代わられてしまったのである。いかに以前の権威とその権威の理論に従う権威主義のみで真理を求めない、真理を愛さない権威主義者、権力者ではいつか破滅するのがこの世の現実なのである。
  板倉聖宣氏が『模倣の時代』(1988年)で、明治時代、西洋医が、漢方医が知っていた脚気に麦飯が効くという漢方の説を西洋医学的には証明されていないとして受け入れなかったために多くの脚気患者を生み、死亡させたことに対して、経験から学ばず、西洋医学の当時のパラダイムを権威主義的に信奉しつづけた森鴎外らの融通のきかない態度を「証拠より論」という言葉で形容しているが、なぜ証拠より論を重視するのか?それは権威の論だからである。官僚的な権威主義者は真理を愛さないで愛しているものは権力等物欲のみだからであろう。だから官僚的な権威主義者で真理を愛さない者は、真理を愛するものを排するのである。例えばソクラテス、イエス、ガリレオ等、まだまだたくさんいる。そういう経緯があって現在では宗教の力は衰えた。そして近代化という科学の時代になった。それは、神や魂の存在を否定した人間中心主義の社会である。そして人間の官僚が権力者になり、物事の善悪を決めていくようになった。しかし野家啓一氏が「近代の合理主義が官僚支配の管理社会をもたらした。これを否定する思想が行動に転じたのが五月革命」と語っているように、多くの市民は、民主主義だと建前ではいうが、実際にはそうではなく、官僚支配の管理社会に不満があるのが現実である。なぜならこの近代の合理主義により生まれた官僚支配の管理社会も真理を愛さず、権力を維持するための陰湿な陰謀の渦巻く一部の権力者のためのものでガリレオ等を異端として排除していたころのキリスト教の社会と変わりがないからではないだろうか?そう考えると官僚的な権力者の質は近代以前でも近代以後でも変わっていないように思われる。
 
 
  *真理を愛さない、単なる権力のみを愛する官僚的な人間及びその人間が権力を持つ場合、嘘をついたりして陰謀によって個人(市民)を騙し、個人(市民の主体性)を剋して、市民を支配しようと洗脳するので、盲信はするな、疑って真理を知れというのがある有名な占いから導き出せる理論である。この占いから考えれば近代以前、近代以後関わらずいつでも権力のみで真理を愛さない官僚的な人間が存在することがわかる(生まれてくることがわかる)。大事なのはそのような真理を愛さない官僚的な権力者に権力の主導権を持たせないことである。
 
  *反乱は世界規模で起きていた。1968年、五月革命が起きたその年にソ連の戦車が民主化を目指すチェコの「プラハの春」を踏みにじった。アメリカでは、キング牧師が「私には夢がある」と人種差別撤廃を訴えた。ベトナム反戦も空前の規模になった。中国では、紅衛兵が文化人をつるし上げた。日本でも全共闘運動が生じた。フランスに留学中だった西川長夫・立命館大教授は「文革の北京や日本の全共闘運動のメッセージが読まれ、一緒に闘っていると実感した」と回想する。そうした動きは、構造主義批判となっても現れた。学生たちは「『構造』はデモに加わらない」とからかい、文明や社会を静態的に考え過ぎると非難した。構造主義の精神分析家ラカンは「デモ」をしたのは『構造』だった」と切り返す。学生たちが主体的にデモに参加したのではなくて、社会構造の変動が人々を動かしていると反論したのだ。この世界中で起こった反乱は失敗に終わった。(「20世紀どんな時代だったのか 思想・科学編」(読売新聞社編 1999)のp82〜83参照。)  

 官僚という人間(に対する国民への洗脳)  2015年8月9日公開

バートランド・ラッセルは、権力を得ようとする人間は弱いものだ、権力欲そのものが恐怖の結果であるとして、それに気づかない権力志向のニーチェのことを述べている。隣人を恐れないひとびとは、隣人に暴挙をしかける必要を認めないとラッセルは述べている。この意見に同意しない人もいるだろうから私は少し意見を加えると、このラッセルが言うことはある有名な占いでも示されていることであり、ラッセルももしかしたらそのことを知っていたのではないかと私は考えたりもしている。弱いから、恐れるから群れて権力を求め他人を支配しようとするのである。それを官僚というとその占いは示している。デカルトは今まで習ってきたことでおかしいと思ったことがあったら疑え、いやむしろ虚偽だと思えと言っているが、権力はつまり官僚等は自分たちの保身と自分たちの子孫の繁栄の維持のために、他者(国民)を恐れるために他者(国民)の力を弱め、おろかにするために嘘をつく存在であることを示していると考えてよいと思われる。例えば、戦争で勝ったものはすごいとか偉いと思っている人はどれだけいるであろう。しかしラッセルの意見によれば、隣人を恐れないひとびとは、隣人に暴挙をしかける必要を認めないというわけで戦争を起こす(起こさせる)人間は、隣人を恐れる弱い人間ということになる。ところでプラトンによれば戦争は、じっさい、戦争や内乱や争いでさえ、他ならぬ肉体とその欲望が惹起するものではないか。というのは、すべての戦争は財貨の獲得のために起こるのだが、われわれが財貨を獲得せねばならないのは、肉体のため、奴隷となって肉体の世話をしなければならないからである。と述べているが、先ほど述べた占いでは金銭欲等物欲が最も強いのも官僚なのである。官僚は正しいというイメージはないか?それは洗脳の結果であって、ラッセルの意見やその占いから考えれば官僚こそ、最も気が弱く他人(他国)を恐れるがゆえに権力を欲し、他人(他国)を支配するために嘘等の策略を用い、金銭欲等物欲が最も強いために戦争を行いやすい存在なのである。それからいうまでもなく権力志向の官僚自身は、権力に弱い。日本は、(鳩山氏の意見を信じるならば)今はアメリカに従属しているのでアメリカという権力に日本の官僚は弱く従っているというのが現実であるということである。鳩山由紀夫氏の以下の、アメリカと官僚によって自分の意見は通らなかったということはそのことを示しているのであろう。
 
 
  誠に恥ずかしい限りではあるが、総理時代に米国と官僚の厚い壁に歯が立たなかった所以がここにある。日本がアメリカに従属している構図は極めて強固であり、霞が関には従属の完成系が存在している。こんな情けない日本を自立させ、対米従属からの脱却の旅に出る政治家は現れてないのであろうか。   
  *こちらのページも参考にしてください。
 
 *言うまでもないが、この官僚とは日本の官僚だけでなくあらゆる国に存在する官僚についても同じである。ところで官僚には文官と武官の二種が存在する。

 *気の弱い権威を愛する官僚ではなく、権威を疑い真理を愛する気の強い人間が政治のリーダーとなるべきだとその占いは示している。プラトンの哲学者が政治家になるべきという意見とも合致するのである。
 
 *世の中には、善い職業と悪い職業があると思われるが、悪い職業とは社会的に害を及ぼす反倫理的な職業、例えば労働者から搾取する資本家を潤す派遣労働のような職業、最近ではカジノ法案についても言われているが、どうやら国家はこういう悪い職業をなくそうというのではなく、存続させて、あるいは新たに作ることによって税金をとろうとしているように思われる。まさに国家こそつまり官僚こそ金銭欲等物欲が最も強いということの証明であろう。このように悪い職業をも存続させ、また新たに生まれさせて税金をとろうという物欲の強い官僚であるから、金に困ることはなく、それは言うまでもなく金銭的困窮者の弱者の気持ちなどわからない人間であることは容易に想像できよう。官僚には自分自身の罪の自覚と官僚自身とその子孫だけでなく他人の気持ちも理解できるよう考えてもらいたいものである。

 *以上は現在の状況であるが、過去の日本の状況のことも参考にしていただきたい。そのためにこちらこちらこちらこちらをご覧になってください。

 中医学から見た、過度な内体労働による疲労の結果により生じる身体への弊害  2016年1月23日公開

肉体を動かすことは陽であり、静かにしていることは陰である。したがって適度な運動は気血を巡らせるからいいと言われるが、過剰に肉体を動かせば(つまり過度の肉体労働による疲労は)、気(=熱)や陰(=体液)を消耗し、また熱が生じるので熱(虚熱、実熱ともに)が過剰にある人は、肉体を動かすなら注意して行うべきだ。そうしないと更に熱を生じさせて病を悪化させてしまう可能性があるからだ。また気・陰が不足している者も注意が必要である。 特に過度の肉体労働による疲労で言われることは脾気虚が生じるということである。ここで思い出すのが日露戦争時に脾気虚により大量脚気者を出して多くの日本人を殺したことである。戦時の過度な肉体疲労とそれに対して白米では対応できなかったことが想像できるのである。以上のことからわかるように、人によっては、体の状態によっては、過度の肉体運動を絶対にしてはならない場合があるのが現実なのである。

 孝の哲学  2023年3月3日公開

元々は、中国の伝統的な哲学に孝というものがある。そしてそれは、日本にも当然伝わっていたが、近代後(つまり明治以降)から現在に至り、消え去ってしまった。孝の哲学とは、先祖および親からもらった体を大切にし、感謝し、体を大事にしてできるかぎり長生きし、その間は先祖を祭り続け、親には孝行する、そして男子を設けて自分の後も先祖を祭り続けることで家を維持することが生きる目的である、というものである。江戸時代までは養子をもらってでも男子に家をつがせることが一般的だったようだが、近代以後科学至上主義で、男女平等となり孝の哲学は言われなくなり、戦争を行うこともためらいがなくなったのだと思われる。それではなぜ男性が家を継ぐとなったのか、それは中国の最初の皇帝(三皇五帝)が三皇の伏羲であったからだと思われる。しかしその後の皇帝(三皇五帝)が三皇の女か(天照大神が女神だという説は女かをモデルとしているからだと思われる。)が継いだのだから女性でもよいという説もあるが、男は陽、女は陰とされることからも男が家を継ぐというのが一般だとされたのだと思われる。
  孝の哲学によれば、スポーツのように過度の肉体を消耗させることは悪(マスコミ(マスゴミとも言われる)で取りあげられているからといって正しいとはかぎらない。同様に法律にどう書かれていたって正しいとはかぎらない。)、手術も悪、剃髪(散髪)も悪(キリスト教の国には理髪医というのがいたという。『近代科学を超えて』(村上陽一郎(著) 講談社 1986年)P78には以下のように書かれている。もともと、学問としての医学が、実際的な面から比較的離れていた――たとえば外科的手術は、「医学者」ではなく職人層に属する「理髪医」の担当すべきことがらであった)、化粧も悪ということになる。残念ながら戦争の時代には孝の哲学など叫ばれないのであり、それどころか明治以降、近代化が進めば進むほど、孝の哲学は衰えていったと思われる。宗教の衰退=孝の哲学の衰退と考えていいのではないか?と思うくらい、孝の哲学は重要な問題であるが、明治以降衰退していったのだと思われる。明治以降、肉食が一般化したように宗教つまり神や魂の存在の否定である(近代化とは物理学(科学)至上主義であり、運動量保存の法則から魂の存在は否定された)、物理学に基づいて西洋医学は作られている。明治以降日本では東洋医学は否定され、西洋医学一辺倒になる。射精は無害となり婚前交渉は問題ないことになり)、入浴する(風呂に入る)ことも体に良くないということは言われなくなり現代に至っている(酒とたばこについてはここで述べた。)。明治以降、西洋医学同様、東洋医学の経験的な医食同源、薬食同源の食養生から科学的(化学的)な栄養学にとって代られた。例えば、江戸時代にマグロの大トロは脂っこいのが体に悪い(一般的には脾胃に良くないとされる。)ので捨てられていて、マグロは下魚とされていたようだが、現代はどうなっているだろうか?(こちらこちらも参照してください。)。

*出家とは家を捨てて修行することであるので、つまり親や先祖を捨てて家を出ることであるので先祖を祭ることもやめることである。したがって出家=不孝である。江戸時代に作られた檀家制度(寺請制度)自体が、仏教的にはおかしいのである。葬式仏教にもさせられているわけであるし。

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