自由と個性/ プライド/ 目的と方法・手段/ 人間が過ちを犯す理由(知性による無知と感性による無知)/ 科学(科学とは?/自然科学と人文科学)/ 因果応報はあるか?

 自由と個性

自由とは、人間(お互いに、より快適な条件のもとに共存する存在)の自由のことである。つまり人間(お互いに、より快適な条件のもとに共存する存在)が人間(お互いに、より快適な条件のもとに共存する存在)として生きているのであれば、何をやってもいいということである。それが自由である。
 個性を大事にしろ、個性をなくすな、等言われるが、この場合の個性とは、人間(お互いに、より快適な条件のもとに共存する存在)の個性のことである。つまり人間(お互いに、より快適な条件のもとに共存する存在)として生きているのであればその人間(個人)がやることは全て個性である。だから人間として個性を表現することは、人間の自由である。しかし人間性に反する動物(オスあるいはメス)としての個性の表現は許されない。

*人間とは、自分と他人が、お互いに、より快適な条件のもとに共存する存在のことである。

 プライド

プライドについて考える場合、大事なことは、このプライドは人間(男あるいは女)としてのプライドなのかそれとも動物(オスあるいはメス)としてのプライドなのかということである。人間としてのプライドなら善いが、動物(オスあるいはメス)としてのプライドならば悪いものである。
 また日本人としての誇り(プライド)という場合も日本人の人間として優れている性質ならば日本人の誇り(プライド)であるが、日本人の人間として劣っている性質は日本人の欠点で、決して誇りではない。

 目的と方法・手段

目的がいかに正しかろうとも、手段・方法が悪ければ、それは悪い行いである、と私は考えている。イラクやアフガ二スタンの人々を圧政から解放することがいかにに正しい目的でもその方法で多くのイラクやアフガニスタンの人々を殺してはならない、と私(ネット理想編著人)は考えている。当然、いかなる理由があろうともどうなるかわかっていて広島・長崎に原爆を落としたことは誤りである、と私は考えている。以前、朝まで生テレビで司会者の田原総一朗さんは、某宗教団体は、この世は悪いところでこの世にいるとさらに罪を犯してしまうからポアしてこれ以上罪を犯さないであの世に行った方がその人のためであるという理由で殺人を犯したというようなことをおっしゃっていたと記憶しているが、もしこのお話どおりであれば、いや話どおりでなくても殺人は当然、誤りであると私は考えている。
 我々は人間であるのだから、人間として生きなければならないのである。人間以上でもなく、人間以下でもない人間としての生き方をすることが人間の生き方であると、私(ネット理想編著人)は考えている。

 人間が過ちを犯す理由(知性による無知と感性による無知)

まず理に適っている状態つまり正常な状態とは、愛に生きることつまり愛に基づいた陰と陽の平衡(=バランスのとれた)の共生(=太極、太一)、それは中、中庸、中正、中道等と言ってもいいであろう。ここでの陰とは知性であり、陽は感性のことである。そして問題の過ちとは、陰に過ぎること、あるいは陽に過ぎることである。例えば、陽に過ぎることなら、大ざっぱ、感情による固執(例えば、過信つまり自信過剰)等である。陰に過ぎることなら、小さいことに拘り過ぎる、冷酷等である。当然、失敗も過ちに含まれる。失敗の原因が過ちだからだ。陰と陽が共生するつまり知性と感性の共生(=一致)ができていないからである。過ちは感性の無知と知性の無知あるいは両方によって生じると私は考える。
 感性の無知とは、感性でわかっていないから過ちをしてしまうというものである。例を挙げれば、極端な例だが、愛情不足の人間ならば、愛の重要性を感性でわかっていないので、殺人を犯してもなんとも思わないのかもしれない、以前、殺人をする経験がしてみたかったといって実際行なった少年がいたが、その少年は、実際殺人を経験して悪いことだと感じることはできたのだろうか?人間は、経験したからといって感性で悪いとわからなければ、また繰り返すのではないだろうか?当然、愛情不足で知性だけで殺人は悪いことだと知っていても同様である(これは推測で断定はできないけれど)。それから、戦争についていくら文献を読んで戦争はよくないことだと、ひどいことだと頭ではわかっていても、歴史を見れば、戦争は繰り返し起こっているのが現実である。これも感性でわかっていないからであろう。
 一方、知性の無知は、知識がないから過ちや失敗を犯してしまうことである。また知っていたことでも気づかずにあるいは忘れていて過ち(失敗も含む)を犯してしまうことがある。例えば、いくら愛情込めたって知識がなければつまり知性がなければ、おいしい料理はつくれない。料理の理は太極である。
 それから当然、感性の無知と知性の無知が両方ある人は、当然、過ちを犯しやすくなる。
 ところでいうまでもなく過ちを犯してはならない。しかし全ての過ちを犯さないということは困難であろうし、そうしようと注意しすぎると精神的にも大変である。だからいい加減で、これだけは犯してはならないという大きな過ちにだけ注意して、どうでもいい小さいことには過ちを犯さないほうがいいけど、過ちを犯してもまあいいやと思って生きればいいのではないだろうか?。小さい過ちは基本的には他(人、物)に迷惑をかけないことであろう、例えば不意にどこかに足をぶつけて痛がるとか何かにつまづいて不意に転んでしまうこととかであろう(笑)。

 *例外的に転び方によっては笑い事ですまない大事になってしまう場合もあるので、転ばない方がいいのは言うまでもない。

 科学(科学とは?/自然科学と人文科学)

 科学とは?

科学とは、科学の「科」とは(細)分科の「科」で、つまり科学とは「(細)分科された学」という意味の略語で、つまり個別学科を意味する言葉である。それは西洋の学問が既に分科されていたからであり、日本が近代化(=西洋近代化)する際に西洋の学問を日本に全面的に取り入れる際(幕末・明治維新期)に必要に迫られて科学という言葉が日本で使われるようになったのである(科学という言葉は、日本の造語という説と中国から輸入されたという説がある(1)。私も中国からの輸入説なのではと考えている。)。ところで、分科の学といわれる科学が何から分科されたかといえば、それは哲学である。この哲学という言葉は日本で造られたフィロソフィア(「知恵を愛する」)の訳語である(西周が造った言葉である)。西洋の学問は、すべて元は哲学(という一学科)であり、それが分科したものである。つまり西洋において全ての学問は哲学から始まったということである(そして今、日本で教えられている学問は、その哲学から分科した様々な学問つまり西洋の学問一辺倒と言ってよい状態である。)。
 私は、ご承知の通り、個人的に、愛することを(愛の対象と)お互いがより快適な条件のもとに共生すること(正確には、お互いがより快適な条件のもとに共生したいと感じるがゆえに知性と共生してそれを実行すること)と思っているので、哲学とは、知恵(当然、実践知も含む、だから感性(感情、感覚)による知も含む)を愛する(=お互いがより快適な条件のもとに共生したいと感じるがゆえに行なうこと)ことであると解釈する。この知恵は真理の知恵であって、間違った知恵(真理に反した知恵)ではない。したがって真理の知恵への愛(=哲学)には、(真理の)知恵の悪用は当然含まれない(真理の知恵を悪用すれば真理の知恵を貶めていることになり、決してそれは真理の知恵への愛とはいえない。(2))。真理の知恵を愛する(哲学)とは、真理の知恵とお互いがより快適な条件のもとに共生したいと感じるがゆえに共生することである。だから真理の知恵と共に、真理の知恵を持って(使って)生きる(真理の知恵と共生する)こと(を望むこと)である。それゆえ真理の知恵を愛する(哲学)者は、真理の知恵を求めるのである。したがって全ての学問に共通する学問の意義は、真理の知恵を愛することである。ところで真理の知恵とは真理である知恵ということであるつまりそれは真理のこと(真理という一語でいうことができる)である。したがって哲学とは真理を愛することつまり真理とお互いがより快適な条件のもとに共生することである。正確にいえば真理と共に生きたいと感じるがゆえに真理と共生することである。
 それでは、その真理(=理)とは何かといえば、私は、愛による陰と陽の共生(=太極、太一)であると考えている。したがって倫理、論理、心理、物理、地理等あらゆる理がつくものには、愛による陰と陽の共生(=太極、太一)の理という法則が貫かれているもので、当然のことだったので、自然と省略されたのではないかと私は考えている。つまり太極の論理、太極の心理、太極の倫理、太極の物理等と言えるものであったと考えている。もちろん個別の問題によって具体的にあるいは詳細には異なる表現をするであろう。しかし全て(の自然)に共通して存在する理(=真理)は太極だと考えている。)であると考えている。だから本来、理には知性だけでなく感性(感覚、感情)も含まれると考えている(3)。
 ところでサイエンス(science 自然科学)という言葉が生まれたのは、19世紀である。だから今でこそガリレオもニュートンも(自然)科学者(サイエンティスト)とされているが、当時は(自然)哲学者であったのである。今日本で科学と言われれば、多くの人は、自然科学のことを考えるであろう。その自然科学が生まれるきっかけとなったのは、キリスト教の教えや既存の権威ある人の考えに必ずしも納得いかないという感情(気持ち)が(もちろんそれは、それまでの人生経験つまり感性と知性による分析から生まれたものであるが)、つまり真理と共にありたいという真理を愛する感情・情熱が真理を証明するための知性である自然科学(という新たな一つの方法論)を生んだのであろう。キリスト教の教えや既存の権威ある人の考えが必ずしも正しくなかったのは、必ずしも(真理を得るための)論理的な(4)思考のもとに生まれた考えではなかったためであろう。だから論理の根拠を明確にすることが、近代以後の自然科学、人文科学、それ以前の哲学の一部であった頃の自然科学、人文科学でも重要なのである。
 ところで科学は、(細)分科された学という意味であるため、分科された学問つまり個別学科という意味である。だから哲学科(学)、物理学科(学)、文学科学、文科(学)系、理科(学)系というふうに言うことができる。しかし現在、それぞれの学問に科学を付けて言われることはほとんどなく、今一般的に言われている科学は、分科した諸学問(諸科学)をさらに理論的に分類したものである。それは、自然科学、人文科学、社会科学等である。
 
 (1)『科学論入門』佐々木力 岩波書店 1996年 p3。
 (2)例えば学者の論文捏造がそうである。
 (3)(4)私の個人的な見解であるが、真理(=理)は、太極(この場合の真理は人間も含めてすべての自然に共通して存在している自然法則という意味である。だから論理も心理も倫理も物理も地理の理は太極であり、つまり論理、心理、倫理、物理、地理に太極という法則が共通して存在していると私は考える。だから当然、太極は全ての学問、全ての自然に共通して存在する自然法則であると私は考えている。)であると思っている。そして日本に近代以前に存在していた理は太極であったと私は、考えている。例えば論理であるが、近代化以前の論理は当然、太極の論理であるから感性と知性の共生による論理、つまり感性と知性の矛盾のない共生それが論理(もちろん太極の論理という言葉は知らなくても感性と知性が矛盾なく共生しているのが論理だと。)であった。例えば、言霊とは言葉に感性が含まれるということである。つまり感性つまり意識なくして言葉は発せられなし、感性つまり意識無くして言葉は創られないのである。(言葉も太極の論理によって創られたと私は考えている。)しかし近代化によって日本で西洋からlogicを取り入れる際に論理学という造語が新たにつくられた。その結果、論理には本来の論理つまり太極の論理の意味とlogicつまり論理学の意味の論理の2つの意味ができてしまったのである。そして今の西洋近代化(つまり科学化=数学化、当然、数学の論理に感性は含まれないとされるから(実際は、数も数学も感性と知性によって認識され、創られたので感性は含まれるのだが(例えば足すとは引くとか一、二とか)、西洋では言葉は元来、知性だけから創られていて知性だけで答えを得ることが真理だと考え、それを、そのまま日本でも受け入れた)、したがって近代化以後、日本の理は、感性は含まれないものという誤った見解になってしまったのである。例えば、理学部といえば自然法則を数学で書くことを教えるところであるように。)された日本では、論理といったら論理学(=感性を無視し、感性を考慮しないで言葉の意味を数学的思考のみつまり知性のみで答えようとする学問。)という誤った意味で使われるのが定着してきているが、それは、以上の通り本来の意味の論理とは異なるものである。漢字の生まれた中国では、以前は、日本同様、論理学の意味の論理も論理と言っていたし、論理学という言葉も使われていた(今でも中国人の年配の人にはそう使う人もいるだろうが、最新の中国の辞書では論理学は邏輯学(ロウジイシュエ)の旧称となっている)。それは、哲学という言葉同様、論理学という言葉も、日本で造られた言葉を中国が取り入れて使っていたからである。しかし現在、中国では論理学の意味の論理を邏輯(ロウジイ)、論理学のことを、邏輯学(ロウジイシュエ)と改称した(ちなみに邏輯(ロウジイ luoji)はlogicから造られた言葉(つまり造語)である。)。これは、現在の日本同様、本来の論理の意味と本来の意味と異なる論理学の意味の論理の意味の混同を解消するために、新しい言葉がつくられたと思われる。つまりもともとの論理の意味に日本で使われる論理学の意味の論理の意味はないのであり、本来の論理と区別するためであろう。このことからもわかるように論理学の意味の論理は本来、論理とは言えないものである。ネット理想では、論理をもともとの意味、語源としての意味、つまり太極の論理の意味として使っているので、そのことを理解していただきたい。ちなみに中国で哲学という言葉はどうなったかといえば、哲学は論理や論理学と異なり、改称されずに今も使われている。それから太極の物理は、今、日本で言われている物理学(正確には西洋近代物理学)の略の意味の物理ではなく、あらゆる物に共通して存在する理つまり物の理という意味である。だから今で言う物理学にも化学にも生物学にも地球科学にも適用されている理という意味である。例えば、地球温暖化も理である太極(陰と陽の共生、太一 ここでは寒熱)で説明がつく。ちなみに西洋における理は、一般的に知性のみで出されるもので感性は含めない(つまり感性がどうであれ、知性で納得いけばそれでいいというもの)というのが常識的な考えであるが、私は西洋における理も元々は太極であったであろうと考えている。それから日本は(西洋)近代化したおかげで物質的繁栄をもたらした。しかし同時に、(西洋)近代化が日本人の心を荒廃させたのも事実である。

 自然科学と人文科学

科学は哲学(=真理を愛する)から分かれたことからもわかるように真理を愛し、探究するものである。つまり科学とは真理へ導くための論理(つまり真理の論理)であり、また論理から導き出された答え(=真理)である。それではまず人文科学と自然科学の違いから述べよう。結論から言えば実際は違いなどない。
 まず、自然科学について述べる。自然科学とは、自然つまり物(の理=物理)の真理を探求する学問である。物には、人間も含まれる、例えば医学がそうである。ところで一般的に自然科学とは自然法則を数式つまり数学で書き、それを実験によって証明するものであるという考え方がある。そして実験で証明されなければ、科学的に証明されたとは言えないというものである。この数式で書かれた自然法則を科学(理論)といい、この科学(理論)を使って作られた技術を科学技術という(科学によって作られた技術という意味である)。この科学技術は、きかい(機械・器械)と言われるものである。この自然法則を数式で書き、実験によって証明できたものだけが科学だという考え方は、最初に科学になった物理学、もともとは物理学(だけ)が科学(サイエンスの意味での)であったつまり物理学の考え方である(それゆえ物理学は純粋自然科学とも言われる。)。しかし実際、他の自然科学を見てみると自然法則(=科学理論)を数式で書けないものもあるし、実験ができないものも存在する。例えば動物の行動は数学(だけ)ではかけないし、天文学においては、ほとんど実験はできない。そのため今、一般的に自然科学と言われているものは、自然法則(=科学(理論))を実験や観察(観測を含む)で証明するもののことである。実験や観察(観測を含む)から自然法則(=科学(理論))を見つけることもあるし、自然法則(=科学(理論))を思いついて、実験や観察で証明する場合もある。そして実験や観察で証明されなければ科学でないというのである。その他、自然科学の全般において真理を得る方法として数学を多く使う(統計も含む)、また人文科学同様、文献(つまり過去のデータ)を使って真理を探究するのである。
 ところで実験とは、真理を得るために人間が自然(人間も含む)に直接、働きかけを行なうことである。観察(観測も含む)とは、真理を得るために人間が自然に全く働きかけずにただ観たり、観測することである。実験と観察の違いは、きかい(器械、機械)を使う、使わないではなく、人間の自然への働きの有無である。
 ところで実験や観察をあまりしない人文科学は科学ではないつまり真理を得られないといわれることがあるが、そうではないと私は考える。ただしないだけつまりする必要がないだけである(できない場合ももちろんあるが)。それでは、人文科学の説明をしよう。
 人文科学は、人類あるいは人間文化学のことである。人文科学(ここでは社会科学も含む)は研究対象は主に人間であり、具体的には個人的人間、人間と人間の関係(=社会)と人間と自然の関係、人間と文化(人工物)との関係である。社会科学とは社会(人間関係、人間の集合体)の真のあり方(真理)はいかなるものかを探求する学問である。人文科学は、社会科学以外で社会を対象としない学問ということはできるが人間はもともと社会的動物なので区別することは問題あるだろう。また例えば法学や政治学等は社会科学といわれるが人間という個人(に共通している人間性)の研究なしに語ることはできないであろう。だから社会科学も人文科学に含まれるのである。具体的な人文・社会科学の方法(論)は、感性(感情、感覚 経験あるいは想像)と知性(思考、経験や想像以外から得た知識)から真理を探究するものである。そしてそこで得た真理は、(人間の)文章(言葉)によって記述・証明されるのである(数式を文章に入れる場合も、自然科学の結果を文章に入れる場合も必要な場合は当然ある)。人文科学は主に文献を調査して真理を見つけることが多いが、学問(=科学)によっては科学技術による実験、観察、や科学技術を使わない実験や観察(観測も含む)を行なったり、また統計による調査も使って真理を見出すこともある。
 ところで人文科学は疑似科学つまり科学でないという意見がある。しかしそもそも自然科学を生んだのは人文科学である。自然は数学で書けると数学で導いたのだろうか?、科学とは、実験や観察で証明できるものという発想は何から生じたのだろうかそれは人文科学から生まれたのである。人文科学の感性(感情、感覚 経験あるいは想像)と知性(思考、経験や想像以外から得た知識)から真理を探究するという方法論からである。したがって人文科学は自然科学の母であり、人文科学を否定することは自然科学を否定することに他ならないのである。だから自然科学は文化であり人間がつくったものである。つまり自然科学は人文科学の一部なのである。
 人文科学で大事なことは、人間は感性(感情・感覚)を持っているということと知性を持っているということである。つまり感性と知性を考慮しなければ、人文科学では、真理を得ることはできないということである。そしてそのため人文科学では実験や観察はあまりしないが、それはあまり必要ないからである。その例を挙げようと思うが、その例は、同時に実験・観察にこだわることの問題を示す例でもある。では例を挙げよう。一度も本気で殴り合いのけんかをしたことがない人がいて、本気の殴り合いのけんかで殴られたら痛いのかどうかわからないから、実際に本当のけんかをして殴られてみようか、いや待てよ。それは倫理的に問題があるから、誰かに頼んで自分自身を殴ってもらおう。でも待てよ。誰かに頼んで意図的に殴ってもらうのは自然とはいえない、不自然だ(これは自然科学の実験でも同様のことが言われる)、おそらく本気さがちがうのではないか、これでは正確な自然状態を再現しているとはいえないのかもしれないが、まあ痛いかどうかわかるからいいやと思う、だいぶおかしな人がいたとしよう。そして実際に殴られて、痛いと感じたとしよう(これで人文科学では痛いと証明できたというであろう。それ以前に普通の人間なら普通の人文科学者ならこんな実験はしないが)。しかし脳科学者や心理学者(心理学は人文科学の学問であるが)の中のこれまたおかしな人であれば痛いかどうかは客観的には証明できていないので実際に殴られた人が痛いかは証明できていないと言うであろう(もちろんそうでないまともな自然科学者もいるであろう)。もし頭に機械をつけてみてその機械で証明できたならばつまり目で見えたならば痛い事が証明できたとなるというのである。これは西洋医学者の機械等による検査で何も見つからないからどこか痛くてもそれは正常だ、病気でない、もし正常なのに痛いのなら精神的におかしいので精神科へいくべきであるという医者の発言と同じである。目に見えようが、見えまいが痛いものは痛いし、何かの原因があって痛いのだから、その原因を客観的に突き止めて治すのが医学の役割であろう。客観=目に見えることだけではないのである。私は、目で見えなければ精神科へという決め付けの発言こそ科学的とは言えないと考えるのである(もちろん精神科へ行くことが正解の人もいるかもしれないがそれは本当にわずかな人であると思われる。)。科学的が真理的という意味でないならそれでもいいということになろうが。よく科学と疑似科学(=非科学 とされるもの)の問題で例として出される西洋医学とそれ以外の医療の問題で、西洋医学以外は非科学的という意見がよくあるけれど、結局は、目に見えるかそうでないかの違いで、真理かそうでないかという考えからの発言ではないのである。私はしっかりした誰もが認める論理を持つ理論があり、実際、治療で効果のあるものは西洋医学以外の医学でも科学つまり真理といっていいと考えるのである。ちなみに私は西洋医学以外の医療がすべて科学といえるかどうか言えるだけの知識はないので西洋医学以外の医療が科学かどうかはここでは述べない、いや述べられない。しかし真理とはいえない、科学とはいえない医療(ともいえない)とはいえないものもあり、よく考えもせずに信じて、大金を取られ、挙句の果てに死にいたらされるケースも存在するのも事実である。そのことを考えるとやはり西洋医学や中国医学のように学つまり分科の学つまり科学(=論理的に体系化された学問)とされているものの方が信用できる可能性が高いのは確かであろう(しかし学(=科学)と言われているものが本当に真理を導ける方法論なのかどうかはわからない。)
 このことからわかるように科学つまり真理を導き出す上で大事なことは、実験や観察の有無ではなく(ただ実験や観察で証明できればその答えの信憑性が高くなるのは事実であろう、しかし別に必要ないならなくても問題はない。けんかで殴られたことがない人の例がそうである。また過去に行なわれた実験・観察をわざわざやる必要はない。だから人文科学・自然科学ともに文献(つまり過去のデータ)でその実験・観察の結果を見ればいいのである。ただ人文科学の歴史学などは、基本的には実験も観察もできない、タイムスリップできないからだ。でも我々は生きていること自体が人間として生きるという実験・観察をしていることであるとも言えるので、その時代の考え方や生き方を文献を通して感性と知性によってある程度想像できるのである(あくまで我々が実験・観察をしているのは生きている今の時代だけである。)。しかし文献は必ずしも万能ではないので注意が必要である。例えば全てが真実かどうか(例えば権力者が自分の都合よく書いているのではないかとか)とか、現存している文献(数が少ないのに)だけで真理だと判断してよいのか等)、その論理なのである。だから自然科学と人文科学の違いや優劣は、本来はないのである。論理的に正しい理論およびそこから導き出される答えが真理であるものが科学であると私は考える。
 それでは近代科学と言われるものは近代以前のものと比べて違いはないのかと言われれば、答えの意味では、それはないと言える、真理(=答え)は近代もそれ以前も変わらないからだ。ただ近代になって科学(真理)を導き出す方法として数学(を重要視するようになった、近代以前にも自然哲学で数学を使った人はいた)や科学技術を使うこと(つまり科学技術を使って実験・観察を行なうこと)ができる場合があるということが発見され、それが一般的になったということである。
 近代になって自然科学が生まれ(科学という言葉もそして実体は)、実験や観察によって証明されれば科学であるとされ人文科学は科学ではないという非論理的つまり非科学的な考えが生まれたが(今も自然科学者の間ではそれが一般的な意見であろうが)、その原因は、人間が、近代に自然科学が生まれる以前同様、論理的な考え方ができていなかったためである。また数学が万能であるという答えがでないうちに数学でこの世の全てを解明できるという考えを信じきったためである。確かに純粋自然科学と言われる物理学が生まれ、そして科学技術つまりきかい(機械・器械)を使えるようになったことで、人間の目に見えないものが見えるようになり、機械化で労働力は削減され、電化製品等により生活も便利になった(しかしこれは主に先進国の話である。)。しかし数学が万能で全てが数学で証明できるということが証明される以前にその考えを信じるのは安易としかいえまい。だがその安易な人間は学者含め大多数であり、狂信的な科学崇拝が一時あったのも事実である。(もちろんそうでない賢明な人も少なからずいたであろう)。そしてそのような時期には無神論者も現れた(当然、人文科学者も自然科学者の問わず無神論者が現れた。ちなみに科学の祖といわれるニュートンやガリレオは、神の存在を信じていた。)。現在は、ゲーデルの不完全性定理により数学は万能ではなく、また数学だけではこの世は説明できないこともわかった(例えば倫理、法律等人文科学、それはつまり感性(感情・感覚)を無視した、感性(感情・感覚)を考慮しない数学的思考の論理学、つまり知性だけ(本来は数学も感性と知性によって創られたものであるので知性だけはないのだが、たとえば一を一と感性なしに知性だけで認識し、そして一という数字を創れるだろうか?不可能である。足すや引くも同様である。)ではこの世の全ては解明できないということである。知性で納得いくなら何をやってもいい(殺人もなんでも)ということになるのが論理学である。)。もちろん数学は否定しない、数学も必要だ。けれどもそれだけではだめだ。東洋の理、日本の理である大極つまり愛による共生の理はそれを教えてくれている。人文科学と自然科学が互いに補完しあって共生することが真理であろう。そして人文科学と自然科学つまり陰と陽が相交わって未だに発見されていない自然(人間も含む)の一部を発見できるであろう。上述のように、自然科学は、勘違いしていて、目に見えることを大事にするけれども、目で見えなければ自然は存在しないのかといえば必ずしもそうとはいえない。人間の目で見えなくても存在しているものは存在しているのである。ただそれが人間の目に見えないだけの話である。それから人文科学・自然科学関わらず、科学理論も発見しようがされまいが存在しているのである。すでに自然として存在し、それを人間が発見したと言って騒いでいるにすぎないのである。騒ごうが騒ぐまいが自然は存在しているのである。すべて人文科学も自然科学も人間が気づき、人間が言葉を造ってできた文化にすぎないのである。
 人間の力なんてたいしたことないのだということを理解してこの世を生きた方が賢明である。万能だと多くの人が考えた自然科学つまり科学技術のせいで地球温暖化(地球の陰陽のバランスが崩れた。)が生まれ、今ではこのままでは地球も人間自体が滅びかねないと言われている。私は、科学技術を全て捨て去れとは言わないけど科学技術を使うのは必要最低限にして、あとは自然の生き方をすべきであろう。陽(科学技術を使って生きる)と陰(自然のままに生きる)のバランスの取れた理である太極に則った生き方が必要でありそれが真理であると私は考える。


参考文献
『科学論入門』(佐々木力 岩波書店 1996年)
『岩波講座科学/技術と人間 1 問われる科学/技術』(岡田節人/他編 岩波書店 1999年)
『文科系のための科学・技術入門』(志村忠夫 筑摩書房 2003年)
『科学の思想と論理』(山田晃弘・杉本大一郎/他 放送大学教育振興会 2001年)
『実験科学の方法』(濱田嘉昭・菊山宗弘 放送大学教育振興会 2002年)
                                             他

 因果応報はあるか?(ある強者の言葉)

社会科学を非科学と考える人のためにとても有名で地位がある人の言葉を書こうとおもいます。本来いかなる地位、いかなる名誉、いかなるお金もち、いかなる権威ある人が何をどう言おうとどう行動しようとそれは関係ないことである。ただ正しい行いをしさえすればいいのである。しかし社会科学を信じない人は、因果応報など存在しない、だから人間も動物だから本能があるし、本能的に生きて他人に迷惑かけたって法律さえおかさなければいいのであると考えたり、また本当は法律すら守らなくていいと思っている人もいるわけである。そのため社会科学を信じない人は本能的な人である確率が高いので、自分より優れている人つまり社会的強者を無条件に信じ、尊敬しやすいのである。だから私はあえて社会的強者の言葉をここに書かせていただきました。
それは、京セラ創業者の稲盛和夫氏の言葉です。


以下は稲盛和夫氏の文章を要約・抜粋し引用したものです。


ある宗教家が、「結果ではない。行為のなかの純粋さこそ大事なんだ」とおっしゃっていました。さらには、「人間というのは結果だけを重要視する傾向が強い。しかし、そうではありません。その行為をしているときの純粋さのほうがはるかに大事であり、同時にその純粋さがいい結果を招く」というのです。
ところが、世慣れた人は、「そうはいくかい」と思ってしまう。「あのワルが金を儲け、あの真面目な男がうまくいっていないではないか」と考えてしまう。純粋さでうまくいくとは思わない。確かに、その場では悪い奴が成功し、真面目な者がうまくいかないように見えるかもしれない。だから、「そんなことをいって、何年たってもうまくやっている奴はうまくいっているではないか」といわれるかもしれない。しかし実業界を見ると二十年、三十年くらいのスパンで人間の人生を見ますと、悪い奴はうまくいっていないのです。そして、真面目にやっている人は結局いい人生を送っているものです。
だから、私は、時間のファクターを考えに入れるべきだと思います。いかに賢そうにうまくやったとしても、実業界では二十年はもたない。もちろんその結果は二〜三年ではわかりません。短いスパンで見れば、ワルがはびこったりしますし、真面目な人がうまくいかないということもあります。それでも、実業界では20年くらいのスパンで見るとワルは長続きしませんし、いい人がいつまでも苦労するようなこともありません。
(『哲学への回帰 資本主義の新しい精神を求めて(稲盛和夫梅原猛  PHP研究所 1999年)』のp66L1 〜67L1を要約・抜粋したものを引用)


*稲盛和夫氏のプロフィール
 1932年1月、鹿児島市生まれ。
 1955年鹿児島大学工学部を卒業、京都で就職。1959年4月、知人より出資を得、資本金300万円で京都セラミック株式会社(現京セラ(株))を設立し、社長、 会長を経て、1997年から名誉会長を務める。また1984年、電気通信事業の自由化に即応しDDIを設立し会長に就任。国内の長距離電話の低料金化を実現するとともに、移動体通信事業を行うセルラー電話会社8社を次々と設立し、全国を網羅する通信ネットワークを作り上げた。2000年10月KDD、DDI、IDOの合併により KDDI(株) 設立、名誉会長に就任。2001年6月より最高顧問。

 一方、1984年には私財を投じ稲盛財団を設立し理事長に就任。同時に国際賞「京都賞」を創設し、毎年11月に先端技術、基礎科学、精神科学・表現芸術の3部門で人類社会の進歩発展に功績のあった方々を顕彰している。他にもボランティアで、全57ヶ所(海外5ヶ所)、3900人余の若い経営者が集まる経営塾「盛和塾」塾長として経営者の育成に心血を注ぐ。

 公職としては京都商工会議所名誉会頭を務める他、海外においてもスウェーデン王立科学アカデミー海外特別会員、ワシントン・カーネギー協会理事、全米工学アカデミー海外会員等を務める。また1997年には臨済宗妙心寺派円福寺にて得度を受けている。
(WEBページ「京セラ創業者 稲盛和夫」内の「稲盛和夫プロフィール」より引用)