はじめに/ 理想とは? (理(ことわり)の内容)/ 人間 (人間とは?/ 人間としての人間/ 自然の一部としての人間/ 人間の感情と知性 (愛の感情/ 本能の感情/ 知性/ 日々の人間の生き方)

はじめに(ネット理想を読むに当たっての注意点)

ネット理想のコンテンツへようこそ。まずコンテンツを読む前にネット理想を読むに当たっての注意点をお読みください。

 ネット理想を読むに当たっての注意点

ネット理想も含め、他人の文章を読んだ場合は、書いてあることをよく考えもせずに鵜呑みするのだけはやめてください。 よく考えて本当にここに書かれていることは正しいことなのか間違っているのか判断してください。読者は受身的でなく主体的に読んでください。 だから読んだ内容のどこを吸収し、どこを捨て去るのか、それは読者本人が決めることです。 私(ネット理想の編著人)も自分では正しいことを書いているつもりであり、またそれを信念として注意してコンテンツを公開しているつもりですが、中にはそうでないものがあるかもしれません。したがって読者自身が判断して読んでください。

理想とは?

ネット 理想でいう、理想の意味は、一般的な解釈とは異なるかもしれません。しかし私は、あながち間違ってはいないと思っています。このネット 理想でいう「理想」は、人間みんなが、お互いの、いっしょの心で理(ことわり)をおもうこと(もの)、考えること(もの)、あるいは、理(ことわり)を人間みんながお互いにいっしょにこころざす、こころがけることという意味です。
  なぜなら理想の理とは理(ことわり)のことです。そして理想の想は、相という字と心という字から成り立っています。また想を音読みでは「そう」といいますので「相」という字が元となって発生していると思うのです。そこで相(そう)という意味を見てみますといくつも意味がありますが[副詞で]お互いにとかいっしょにという意味があります。そのためお互いの心、いっしょの心となります。そして今度は心を辞書で調べてみますと、「心」の他にいくつか意味がありますが、「望み、こころざし」、「こころがけ、注意」という意味があります。そのため私は、理想を理(ことわり)をお互いに、いっしょに、こころがけ願うあるいはこころざす、注意するという意味とも解釈したのです。この私の解釈は、誤ってはいないとおもいます。というのは、漢字の生まれた国、中国では、想は「ともに・・・と思う」の意味で使われているからです(私の持っている中日辞典から)。しかしこの「ともに・・・と思う」の「思う」は日本語の訳ですから日本語です。それで「思う」を日本の辞書で調べてみると、おもうには「思う」の他に想う、憶う、懐うというものがあり、どれも同じ意味であると辞書には載っています。しかし私はそうではないと考えます。なぜなら字が異なるからです。同じ意味であるならば、字を変えたり増やす必要はないからです。だから想とは、正確には、「ともに…とおもう」という意味です。そして言葉を使うのは言うまでもなく人間です。
  だから理想とは、人間みんながお互いの、いっしょの心で理(ことわり)を思うこと、考えること、または理を人間みんながいっしょに心ざすもの、心がけるものであると解釈したのです。

 理(ことわり)の内容

理(ことわり)には、様々なものがあります。しかし様々な理がある以上、それらの理を生む理由・原因となる理、またそれらを生んだ理由・原因となる理があります。そしてこのようにして最終的には理の大本となる大本の(根源・最初)の理が存在します。したがって何かを判断する場合、その基準はこの大本(根源・最初)の理で判断しなければなりません。それでは具体的に大本(根源・最初)の理とは、なにかと言えばやはりそれは「人間」です。われわれは人間として生まれ生きる以上、人間を大本の理として考え生きていかなければならないのでしょう。

人間

人間は、自然の一部です。だから人間は人間に存在する自然法則にしたがって生きることが自然である。そしてその自然の一部である人間に働いている自然法則は大きく2つに分けられると考える。それは、まず人間には人間という名前がある通り、人間以外の自然と異なり人間だけに働いている自然法則があり、それにしたがって生きることが人間にとっての自然な生き方である。また人間は自然の一部であるから人間を含めた全ての自然に働いている自然法則にしたがって生きることも人間にとって自然な生き方である。したがって人間は人間として生きるという人間だけに働いている自然法則にしたがって生きることと人間を含めたすべての自然に共通して働いている自然法則にしたがって生きなければならないのである。しかしこの二つには相反するものがあり、この場合は、人間は、人間だけに働いている人間として生きるという自然法則を第一として生きなければならない。なぜなら人間を含めたすべての自然に共通して働いている自然法則を優先にして生きたなら人間の存在はなくなるからである。 このようにここで人間について語るにあたってこの2つの自然法則を基本にして説明します。以下の「人間とは?」は、この2つの法則に共通する自然法則です。

 人間とは?

人間は、自分と他(他人、人間以外の自然)のお互いが、より快適な条件のもとに共存する存在である。これは、人間としての人間(自然の中で人間だけに働いている自然法則)も、自然の一部としての人間(人間も含めた自然すべてに備わっている自然法則)も同じで変わらない真理です。ただ少し違いが存在する。それは、人間は人間を殺してはダメである。しかし人間は人間以外の他の自然の生命を奪って生きているということである。そうしないと生きていけないのが事実である。 ただし必要以上に人間以外の生命を取ってはいけない。節度をもたなければならない。節度を持たないで本能の赴くままに自然破壊を行った悪い例が自然破壊で、そのため温暖化問題が生じました。

 人間としての人間(自然の中で人間だけに働いている自然法則=道徳・倫理)

人間とは、文字どおり人の間で存在するものである。つまり人間とは、人と関わって存在するものである。 言い換えれば、人間とは、共存するものである。したがって人間として生きるとは、共生することである。 この場合の共存(あるいは共生)は、従属関係のような不快な共存(あるいは共生)ではなく、お互いが自由で、平等など、 お互いが快適な条件のもとに共存(あるいは共生)することである。 またこのお互いが快適な条件も、より快適な条件の方(=つまり進歩した方)がいいわけである。 したがって人間とは、「お互いがより快適な条件もとに共存(あるいは共生)する」存在のことである(人間性を進歩させ続ける存在)。 したがって人間として生きるとは「お互いがより快適な条件もとに共生する」ことである。 この「お互いがより快適な条件もとに共存(あるいは共生)する」ことを道徳あるいは倫理という。 そしてこの人間が、「お互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)する」権利を人権という。 この人権(人間にとってお互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生すること))を破壊するもの(人権侵害)は、悪であり、 お互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)を促すことは、正しい、あるいは善いこととされるのである。 このお互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)することは権利(=人権、また人権は人間として生きることつまりお互いが 、より快適な条件のもとに共存(あるいは共生)することは人間にとっては自然なことであり、文明・文化が創られる以前から人間には 存在している権利として自然権と言われる。)であり、義務である。 なぜなら全ての人間がこの義務を放棄したならば弱肉強食の社会になりお互いが不自由で、不平等など、お互いが不快な条件のもとに 共存(あるいは共生)することになるのである。つまり全ての人間が義務を放棄すれば権利(=人権)も存在しなくなるのである。 自由や平等などお互いが快適な条件のもとに共存(あるいは共生)することができるのは人間が人間として生きるというルール である道徳(=人道上の徳)を守った時に存在するものであることを忘れてはならない。 中には人間も動物と同じで強者はいい思いをするだけだから人間の強者は悪条件に生きないで済むと考えるかもしれないが、 道徳がなければ人権が存在しないので強者を殺してはならないという論理はなく、知能的強者も肉体的強者も、その両方を持った者 でもいきなり殺されても問題はないということになるのである。
 したがって人間は人間として生きる以外に幸せはない。動物のように強いものが勝ち、 弱いものは強者に無条件に理不尽なことにたいしても従う。そんな不自由・不平等な生き方では人間は幸せになれない。 それは、弱者はもちろんのこと強者もである(もちろん人間も動物の1種であるから本能があるので弱肉強食の生き方もできる)。 しかし強者の多くは自分だけの欲求(=本能)を満たし、金や名誉を得てもそれだけでは満ちたりたりはしない。 なぜなら我々人間には愛があるからである。愛があるから人間は人間(お互いがより快適な条件もとで共存(あるいは共生)する)として生きることが幸せなのである。 日々、俗世間に身を置き、現実社会で愛の大切さがわからない人は世界中で餓死者がいるこのようなことを考えれば我々人間は人間として生きる使命を果たし生きなければと思うことができるであろう。 人間は、弱肉強食ではなく強者が弱者を救済をすることが真理である。強いものは弱いものを助け、弱いものは強いものに助けてもらった時は感謝し、 また強いものと弱いものが手を取り合い協力し合ってて日々を生きていかなければならないのである。 人間は、人間であるのでお互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生すること)しなければならない。 そうすれば強いもの・弱いものの差はほとんど見られなくなる平等な精神・物質面とも時代になるだろう。 そしてお互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生すること)ができる幸せな人間社会ができるのである。
 事実歴史を見ればわかることであるが、人間は過ちを犯しながらもお互いがより快適な条件もとで共存(あるいは共生)しているのである。 なぜならお互いがより快適な条件もとに共存(あるいは共生)することが人間にとって自然だからである。
 それから21世紀はグローバリゼーション(=地球の一体化)の時代、ボーダレス(=境のない)の時代と言われますが、 人間は「お互いがより快適な条件もとに共存(あるいは共生)する」ことが人間のあり方です。 だから国や性別や年齢など(あるいは宗教観や経済体制も)関係ありません。どのような人であろうと人間である以上、 人間として生きるのが人間のあり方です。 確かにこれには努力が必要ですが、努力して実現することが人間の生きる目的であり、自然なことです。
 それからわれわれ人間がなぜ人間として生まれきたか、どうして人間という存在があるのか、その理由についてはいくつかの考えがあるでしょう。もちろん私にも私見はありますが、ここでは述べません。 しかし人間として生まれた以上、人間として生きるべきでないでしょうか。人間として生まれたのだから人間として生きることがわれわれの使命だと、私は思っています。

*人権とは道徳・倫理のもとに生きる権利であり、権利には同時に義務が生じる。したがって人権を持つということは人権を守る義務つまり道徳・倫理を守る義務も含まれるということである。
*弱者の種類には、愛の弱者(愛情不足者)、知性の弱者(知識による知と感情による知の不足者)、経済的(=金銭的)弱者(貧困ゆえに、食べられない人も含む)、病や肉体の先天的異常による心身(心と体)の弱者等があります。弱者を救済しましょう。しかし弱者も人間です。すべてを助けてやることが救済ではありませんし善いことでもありません。また自分が正しいと思って相手が求めもしないのに無理やり相手を助けることは、正しい場合もあれば悪い場合もあります。相手の気持ちになって行動してください、またどうしてもできないことだけ助けてあげてください。おせっかいになることもあるので注意して行動してください。

 自然の一部としての人間(人間を含めた自然すべてに備わっている自然法則、 人間以外の自然に感謝を。)

人間は自然の一部である。人間を含めた自然すべてに備わっている自然法則には、人間にも他の自然と同様、他の自然(人間も人間以外の自然も含む)と、お互いがより快適な条件のもとで共生し、他の自然(人間も人間以外の自然も含む)によって生かされているという自然法則がある。
 また人間も他の自然同様、質は異なれど生きるために肉体を持ちそれゆえに本能を持っているのである。そのため肉食動物が動物を殺して食べて生きており、草食動物が草を食べて生きているように、我々人間も、人間以外の自然の生命を奪って生きているということである。しかし我々と人間以外の他の動物の違いは、必要以外は殺さないという性質である、しかし人間は、貪欲で節するということを知らず人間以外の自然のことを考えず、必要以上に人間以外の自然を殺しているのが現実である。その結果生じたのが二酸化炭素問題・温暖化問題・狂牛病や鳥インフルエンザ等であろう。我々も人間以外の自然のように他の生物の生命は、必要以外はとらないでできる限り、人間と人間以外の自然がお互いに、より快適な条件のもとに共生しなければならないのである。人間と人間以外の自然がお互いに、より快適な条件のもとに共生するには、生命をもらっている人間以外の自然に感謝し、また人間は節することを知り、また人間以外の自然のことを考え(それには人間以外の自然のことを知らなければならない)、人間と人間以外の自然がお互いに、より快適な条件のもとに共生できるよう努力しなければならない。
 ところで人間は、対人間に対しても、対自然に対しても、自分と他のお互いが、より快適な条件のもとに共生するものであるが、対人間と、対自然との関係の違いは、対人間は同類の人間は殺さないで生きていけるが、対自然は殺さないと生きられないという点である。
 ところで人間は、他の自然に様々なことをしてもらっているが、人間は、人間以外の自然に何をしてあげているのであろうか?。弱肉強食が自然の法則であるが、弱者を助けるのが人間であり、絶滅危惧動植物を保護したり、動物を家族の一員として野良の生活より快適な条件のもとに飼ってあげることも人間の役割であろう。
 人間は人間以外の自然を軽視しすぎていると思う。人間以外の自然も同じ自然であり、また他の自然がなければ人間は生きていられないのに。温暖化問題とかいわれているが、本当に自然のありがたみに感謝している人はどれだけいるのであろうか。
 私も含め人間は人間なのでまず人間(人間だけに存在する自然法則と人間も含めすべての自然に存在する自然法則にしたがって生きること)として生きることに精いっぱいで(自分だけで)、なかなか他の自然に存在する独自の自然法則(例えば犬なら犬だけに存在する自然法則)を詳細に知ることはできていません。しかし人間以外の自然も知り、自然全てに共通する自然法則である自分と他がお互いにより快適な条件のもとに共生する、人間以外の自然とお互いがより快適な条件のもとに共生するのが人間ではないでしょうか。


*我々が生かされている自然(五行説で説明。五行は木・火・土・金・水で木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生じるという考え。)
木 木材・農作物、木造建築物・家具・紙・本・木から生じられる酸素、衣服(は主に農作物から作られる)など
火 電気(電気製品)、火を使ってつくる料理・薬・食品など。太陽の光と熱。月の光と熱など。
土 農作物(土なくして木は生じない)。土がなければ地面が存在しないので人間は存在しないであろう。
金 電気製品(金属部分)、鉄筋建築物・金属品(ナイフ・フォーク・スプーン・メス等)、コンクリート、宝石。
水 川や雨。川や雨がなければによる飲料水がない。また水がなければ農作物は育たない・海(海がなければ魚介類・塩は存在しない)

 人間の感情と知性

 愛とは ―愛が究極の理性の理由―

愛(の感情)とはお互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)したいと思う感情あるいは欲求である。人間は共感したり、共感されたり(つまり認めたり認められたり)すると幸せを感じるものであるが、それは共感したり、共感されたりすることで人間は、共存(あるいは共生)していると実感できるからである。共感したり、されたりすると幸せを感じるのは、この愛の感情(=お互いが快適な条件のもとに共存(あるいは共生)したいと思う感情あるいは欲求)が満たされるからである。だから全く共感のない存在同士は共存できない。したがって敵にならざるを得ないのである。一方、共感ができる部分が多いほど、共存したい(=いっしょにいたい)と思う(いっしょにいれば共感し合い幸せを感じる。しかしいっしょにいないと共感できず愛の感情が満たされないので幸せを感じられないのである)。人間というものは(お互いがより快適な条件のもとに)共存(あるいは共生)したいと思うし、また(お互いがより快適な条件のもとに)共存(あるいは共生)することが正しいと思うように、つくられているのだ。言い換えれば、人間は、愛という感情を持つから、人間として生きるようにつくられており、人間として生きたいと思うのである。したがって人間((=お互いがより快適な条件のもとに)共存(あるいは共生)する存在))の象徴とは愛(=お互いがより快適な条件のもとの共感)なのである。
 この愛が根本にあるから人間はお互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)したいと思うし、また(より快適な条件のもとに)共存(あるいは共生)することが正しいと思うようになるのであるが、この愛の感情を認識できない愛欠乏症(1)や正常に感情を感じられない精神病あるいは精神病でなくとも頭でっかちの感情より知性中心で生きている人間やいじめなどにより愛を信じられなくなった場合は、愛は感情であり、感情によって愛を知ることが最も大事なのに正確に愛の感情を感じることができない、またはできにくいのである。人権思想、人間の正と悪、愛の感情を知性でいくらわかっていても、愛(の感情)を感情(つまり愛の感情)でわからなければ、悪はなくならない。以前人を殺す体験をしたかったといって実際に人を殺してしまった事件など凶悪な少年犯罪がいくつも起こったが(どこまで真実かは知らないが)、これは、悪を知性でわかっていても、愛(の感情)を感情(つまり愛の感情)でわかっていないため、悪を犯してしまったのだと考えている。私は愛(の感情)を理解できる感情(つまり愛の感情)を持っている人なら、たとえ、愛の明確な概念(=意味)を知らなくとも、殺人など凶悪なことを犯すのを抑制できると思っている。だから私は理性の本質(=根本)は、知性ではなく愛の感情であると考えている。私は愛の感情と知性と共に理性であり、確かに知性は大事なものであるが、知性は愛の感情を実現する(=または証明する)ための道具にすぎないと思っている。愛(の感情)が人間の根本であり、愛(の感情を理解できる心つまり愛の感情を感じることができる精神状態)がなければ人間として生きることができないと思っている。
 
*愛欠乏症は、誕生直後の十八ヶ月以内に愛(の感情)を与えられなかったために、愛(の感情)を感情でわからず(記憶することができず)、ゆえに愛(の感情)を感じることができない症状である。それゆえ、人間は人間(共存するもの)として生きるようにつくられているが、愛(の感情)を理解する愛の感情がないゆえに、人間(共存するもの)として生きられないのである。愛(の感情)は本能ではない。喩えて言うならば、愛というソフトウェアの能力を出す脳というハードウェアは存在する。しかし、愛というソフトウェアが人間にはない。それゆえ、他人(主に、親)によって、愛というソフトウェアをつくって(つまり脳に愛(の感情)を注入して)もらわなければ、愛(の感情)の能力を使うことはできないのである。愛欠乏症は、愛(の感情)がわからず、そのために、悪の感情を抑制する十分な愛の感情がないために、たとえ知性で悪いとわかっていても、悪いという実感がないために、悪を犯してしまうのである。愛欠乏症は、最近では、(知的な少年が罪をよく犯すことからわかるとおり)知的人間にもみられるが、元来は、主に(知的レベルが低いために人間(道徳)の道徳レベルが)下級階級の人間に存在する症状であり、犯罪者(多くは過度に感情的で知的レベルが低くて人間のレベルつまり道徳のレベルが下級のもの)の多くがこの症状に該当する。だから、現在でも、愛欠乏症は、知的階級より、感情的過ぎて知的レベルが低い人間としての下級階級(知性の重要性を理解していないために知性を重要視しない知的弱者)の方がよっぽど多いのである。下級階級になってしまうのは多くの人は下級階級の親に育てられたためである。
 
 ところで愛の感情をもう少し詳しく述べよう。愛の感情は共感したり、共感されたりすることを求め、共感したり、共感されたりすることで愛の感情を満足させた時に幸せを感じるものであり、つまり共感したり、共感されたりして生きることを望む生き方とはお互いが認め合って(=共感したり、共感されたりして生きること)生きる生き方であるお互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)している生き方であり、この生き方を生きることが人間にとって自然であり、幸せであり、欲求なのである。したがって人間が一般的に好き嫌いと分けているものはこの原理から読み取ることができる。お互いがより快適な条件のもとで共存したいとはつまりより効率よく共感したり、共感されたりできるものを好み、求め、共感したり、共感されたりするのに効率が悪いものを嫌い、避けると考えるのである。だからより効率よく共感したり、共感されたりできるものと共存することを望むのである。だから好きな人とは一緒にいたいと思うし。また好きなことはやりたいと思うのである。逆に嫌いな人とは一緒にいたくないし、また嫌いなことはしたくないのである。
 愛つまりお互いがより快適な条件のもとで共感する、または共感したいものには3つある。一つは自分にないものであるが尊敬できる価値観(典型的な例は男女間の性質が反するもの同士が引かれ合うのはこのためである。同性愛者は性器と脳が異なるだけで脳が求める異性に引かれ合うのである。)、二つ目は自分と同じ価値観、三つ目は情(共感できる、共感できないではなく同じ自然としてあるいは同じ人間として無意識に生まれる愛である。そして一般的に情は時間・場所を共有する場合に生まれる。したがって時間・場所を多く共有すればするほど情の量も多く感じる。しかし情も感情なので同じ時間・場所を共有してもそれを感情で認識しなければ情は生まれないこともある。しかし一般的に人間の場合は話せばそれだけで情が生まれる。ただ情は厳密には愛ではないかもしれない。なぜならそれは愛情という言葉があるかあらだ。愛と情は密接に関係しているが、共感できるものだけでなく共感できないものに対しても共存しようとする感情が情だからだ。共感できるものだけに共存しようとする感情が愛である。ただ情はみな自然の一部あるいはみな人間という点では共感できているのである。)の三つである。
 したがってお互いがより快適な条件のもとに共感できないものは嫌いなものである。つまり嫌いなものは一つは自分にないものであるが尊敬できない価値観、自分と違う価値観、情を感じないもの(人も含む。つまり一度も同じ時間・場所を共有したことがないもの)である。例えば恋は(感性で、例えば生理的などで)相手に対して大きなある一部分を共感したことで生まれるものである。親族間の愛の多くは情によって形成されている。もちろん情以外に自分と同じ価値を遺伝子部分(体質等)や生活上において得ている同一の価値観を持っていることからも親族間の愛は形成されているものであるが。「愛の感情」が強いほど尊敬できる価値観、自分と同じ価値観、情の総量が多く、「愛の感情」が弱いほど尊敬できる価値観、自分と同じ価値観、情の総量が少ないのである。「愛の感情」とは、「お互いがより快適な条件のもとに共存したいつまりお互いがより快適な条件のもとで共感したい、または共感する対象と共感するために時間を共有したい(つまり、いっしょにいたい、いっしょにいれば効率よくお互いがより快適な条件のもとに共存することができるからつまり幸せを効率よく感じられるから)と思い、また、その対象のためになることを無償でしたい(つまりそれがお互いがより快適な条件のもとに共存することだから)と思う感情」である。
*このように愛を知性によって説明すると、結局愛は利己的な欲求あるいは感情と感じてしまうかもしれない。したがって人間は愛だとかいうが愛も本能も利己的なもので、愛と本能のある人間は結局は利己的な存在だと幻滅してしまうかもしれない。確かに人間は利己的に生きている。しかし愛は利己だけでなく同時に利他でもあるのである(愛は利他と同時に利己である)。そこが自分のことしか考えない本能と違うところである。そのため人間が愛に生きるべきだと言う理由である。それに知性によってのみ愛の感情を理解すると愛は利己的な欲求あるいは感情で人間も利己的で卑しい存在と思うかもしれないが、実際の愛を感情で感じればそういうことはない。愛は感情においてはとてもすばらしいものと実感できるであろう。これが愛の感情が本来のものであり知性はそれを実現するための手段にすぎないのである。また知性は感情の表現手段に他ならないのである。真実を知るには感情でわかることが重要なのである。
 
 ところで共感できればそれは全て愛であるかといえが必ずしもそうではない。自分と自分の共感する他人の価値観が間違っている場合があるからだ。だから誰かと共感できたとしても本当にそれが正しい共感つまり愛なのか見極めなければならない。そしてもしその価値観が間違っている場合には、改めて正しい共感つまり本物の愛に変えなければならない。このように共感できるから好き、共感できないから嫌いと判断するのは不完全なのである。つまり愛の感情は感情だけでは不完全なのである。確かに以上で私は「愛(の感情)を理解できる感情(つまり愛の感情)を持っている人なら、たとえ、愛の明確な概念(=意味)を知らなくとも、殺人など凶悪なことを犯すのを抑制できると思っている。だから私は理性の本質(=根本)は、知性ではなく愛の感情であると考えている。」と述べたが、大本には愛の感情がなければ善悪の判断をつけることができないが、詳細の面では知性がないと完全に愛と善悪を決めることができないのである。だから自分が愛であると思っていてもそうでないことがあるのである。したがって愛の感情を分別するために、また不完全である愛の感情を補うために知性があるのである。しかしまた知性では納得がいくのに愛の感情では納得いかないものもあるのも事実である。したがって愛の感情でも知性でも納得のいくつまり一致する(愛の感情と知性の共生する)答えが真理なのである。そしてその真理の答えが出た場合、もし自分が間違っていたならばその真理の答えに基づいて行動しましょう。そして他人の考えが間違っていて共感ができない場合は、相手にこういう理由で間違っているので共感できないと教えて人間として正しいことに共感してもらうように諭すべきである。それが他人にとってもためになることであるため他者への愛であります。ただ諭し方も人間(お互いがより快適な条件のもとに共存する存在)として諭さなければなりません。また逆に他人に共感できない場合で、自分の考えが間違っていて他人の考えが正しい場合もあるでしょう。だから何事にも相手の意見をよく聞き、よく考えて相手の意見が正しいと思うならば素直に受け入れる。それが人間としてのあり方でしょう。
 人間が正直さ、素直さ、純粋さ、謙虚さがある人間を魅力的だと感じるのは、これらが、人間が人間(=お互いがより快適な条件のもとに共存する存在)として生きる上で必要なものだからであろう。つまりこれらは、愛の感情の一つの表れ(愛の感情が生んだもの)である。だから幼児期までに愛情を十分に与えられ、愛情を理解できる通常の人間なら誰もがこれらについて魅力を感じるのではないだろうか。逆に威張ったり、逆らったり、ひねくれたりすることが魅力的でないと感じるのは人間性(=共存性)に反するものだからだ。それは動物としての本能なのである。正直さ、素直さ、純粋さ、謙虚さがある人間を魅力的だと思わない人間は、ひねくれた人間である。
 「愛の感情」とは、お互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)したいと思う感情あるいは欲求であるが、その中でも愛の感情は、大きく二種類に分けられる。その二種類の愛(の感情)の違いは、愛の(感情の)強さの違いである。この二種類の愛(の感情の)とは、まず一つ目は「対象と望んで時間と空間(インターネットや電話やテレビやラジオやDVDやビデオやCDなどは非自然つまり人工で、非現実なので少し質が異なるけれど必ず時間と空間の両方を含んだ場合のみ望んでいっしょにいる、望んで共存といえる)を共有したい(つまり、いっしょにいたい)と思い、また、その対象のためになることを無償でしたいと思う感情」、二つ目は「対象と(別に)望まないが時間と空間を共有しよう(いっしょにいよう)と思い、また、その対象のためになることを無償でしたいと思う感情」である。前者の例をあげれば、自己愛、家族愛、友愛、恋愛、物への愛着などである。一人になりたいと思うのは、自己愛のためである。恋愛は、愛のほかに、性欲が加わったものである。それから物に対する愛着、例えば愛国心があるなら、国のために何かをしようと思うだろう。通例、これら前者の愛は、愛の対象と離れた場合に強く感じるものである。例えば、愛した人と別れてから、愛した人への愛がいまだに強いとわかれば、再びその人とよりをもどすこと、つまり時間と空間を共有することを望むだろう。また愛国心の場合では、通例、愛国心は、自国を長く離れたときに感じるものである。そのとき自国に戻りたい、自国で生活したい、つまり自国と時間と空間を共有したいと思うのである。ところでこの前者の愛が生まれる(後者の愛から前者の愛に変化する場合も含む)には、ある程度時間と空間(インターネットや電話やテレビ(以前に収録したものある)やラジオやビデオやラジオやDVDやCDなどは非自然(人工)なので非現実で少し質が異なるが必ず時間・空間の両方を含んだ場合のみ、望んでいっしょにいる、望んで共存といえる)を共有しなければならない。なぜならある程度時間と空間を共有しなければ(本当に)望んで時間と空間を共有したい対象かどうかわからないからである。望んで時間と空間を共有したい対象かどうかはつまりその対象の性質を自分が認められるかどうかで決まるのである。当然価値観が合わなくとも会えば会うだけ情が生まれるため愛は少しづつ増えていく。
 後者の例は、知らない人だとか好きでない人などに対する愛である。後者の愛をわかりやすく説明するならば、たとえば、目の前にまったく知らない人がけがをして、いまにも死にそうだという局面に遭遇したとする、その時に、人間は、たとえその人を知らなくても、誰もが、その人を助けたい、助かって欲しいと思うだろう。そのほか、たとえば、同じ職場に気に食わないやつがいて、殺してやりたいと一度は思うかもしれない(これは生物としての本能である。(どこまで真実かは知らないがニュースの殺人事件などはその例でしょう。))。しかし、やはりよくない(無意識にあるいは意識的に、共存あるいは、共生すべきだ)、と思うであろう。これが後者の愛で、人間が人間(お互いがより快適な条件のもとに共存するもの)として生きるために人間に備わっている根本的な愛である。だから後者の愛のことを一般的には、人類愛という。しかし前者の愛は、この後者の愛が強くなったものであり、前者の愛も後者の愛同様、人類愛である。当然、この後者の愛が前者の愛に変わることもある。例えば嫌いだった勉強が長く勉強していくうちに徐々にわかっていき(=共感していき)、いつのまにか勉強が好きになっていくなどである。つまり嫌いなもの・人(ここでは勉強)が好きになるには嫌いな対象(ここでは勉強すること)との時間(の共有)を長くすることである。
 ところで当然、人間は人間(=お互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)する存在)として生きるつまり愛(=お互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)したいと思う感情あるいは欲求)を持って生きることが人間の目的であり、後者の愛を前者の愛に変えることは当然人間の生きる目的である。
 例えば21世紀はグローバリゼーション(世界中の人々がお互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)する存在)と言われるが、これはまさに違った文化(=つまり違った価値観をもつこと)を持つ人間同士が人間(=お互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)する存在)として生きることが必要となってくる。価値観が合わないから嫌いだ、付き合いたくないではグリーバリゼーション(世界中の人々がお互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)する存在)とはならないし、人間の生きる目的からも反している。したがって自分たちと価値観(尊敬できない価値観、自分と違う価値観、情を感じない)のあわないと思われるものたちと、人間(=お互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)する存在)として生きるために論理的に話し合い、お互いが共通する点、お互いが異なりどちらかが正しい点・悪い点を話しあい、自分の正しい点は相手にも教え、相手の正しい点は相手から教えてもらい受け入れ、自分の悪い点は自ら修正して、お互いがより(つまりそれ以上に)快適な条件のもとに共存(あるいは共生)できるように努力しなければならない。(また会って話をするだけでも同じ時間を共有したことで情が生まれるようになる。グローバル化はまさにこれが必要である)。どの国の人間であろうと人間には愛(=お互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)したいと思う感情あるいは欲求)があるので、人間として生きられる。したがってグローバリゼーション(世界中の人々がお互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)する存在)それは決して不可能ではない。ただ本能という利己的なものが存在するので、人間一人一人が人間は人間(愛を持つ人間同士がお互いに努力してより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)する存在)として生きることが目的であるということを忘れず、本能を抑えるよう努力していくことが必要である。それには特に、思想の問題(宗教などの思想的共感)や経済的格差(経済的共感)などの問題を話し合うことが必要であろう。このように人間とは、人間はできる限り共感し、共存することが本来の姿である。もしグローバリゼーション(世界中の人々がお互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)する存在)が成立し、各国が利己性を弱め、世界中が人類全てのために協力したならば、すばらしい進歩をし、さらにお互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)する存在)ようになれるであろう。
 また愛の感情にしたがって生きる人間はきれいであり、本能の感情にしたがって生きることはきたないといわれたりする。これは自分のことしか考えない本能の感情にしたがって生きることを汚いといい、愛情を持って他人のことも自分と同じように考えて生きることをきれいな生きかたともいうものである。
 それから人間は共感したりされたりした時に幸せと感じるものであり、したがって人間はできるかぎり他人から共感されようまたは他人と共感しようと行動する。そして共感したり、共感されている状態つまり愛で支えたり、支える状態では幸せを強く感じ、活力(エネルギー)がいつも以上にみなぎり、一人で出せる限界以上の力が出るのである。愛によって支えたり、支えられている状態(=共感されており、期待されている)のときには信じられないほどの力が出るものである。愛し愛されている時のパワーはすごいのである。ただしその共感されている内容が本物の愛である場合の話である。
 ところで愛は人間を含めた全ての生物つまり人間以外の生物にも多少なりとも存在すると思う(動物によっても愛の量は異なる)。ただ人間以外の動物にはお互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)できるだけの強い愛の感情とともに愛の実現のための道具である知性が備わっていないだけだと思われる。それは肉体の構造(脳の構造が基本で、そのため人間のように愛の感情と愛の実現のための手段である知性を使えない点が大きいと思われる)のせいである。だから動物だけではお互いがより快適な条件のもとに共存(あるいは共生)できはしないつまり人間の生き方ができないので人間ではないのである。しかし例えば犬は飼い主の愛によってペットにも番犬にもなるのである。つまりペットして人間という動物より高い愛と知性を持った人間に人間と同じ扱いを受ければ、つまり人間の一員、家族の一員として生きると愛を持ち、また知性も高くなっていくのである。したがって人間だけが持っている強い愛とは人間にのみある愛の実現のための手段である知性に支えられて存在するものである。人間だけが歴史の(人間も動物であり本能があり、動物としての本能の)過ちを教訓にして、理性を認識し知性に基づき支えられた愛を根本(=基礎)にして生きていくつまり知性と愛の感情の共感により共生していく存在なのである。
 ところで以上今まで愛について語ってきましたが最後に注意点を一つ。それは愛は知性に基づかなければならないけれども大事なのは感情です、心です。心(=愛)と心(=愛)の交流が心(=愛)を動かすのである。だから愛を知るにはこの文章でつまり知性で知るだけでは不十分です。たくさんの人達と愛情ある関係を持って本物の愛を認識してください。
 
 
 
 *時間と空間については、こちらこちらも御覧になってください。
 

 [まとめ]
 人間は愛し愛される関係をつくることが人間共通の人生の目的。 人間=愛し愛される関係のある存在。愛とは「お互いがより快適な条件のもとに共存したいつまりお互いがより快適な条件のもとに共感したい感情、またはその対象のためになることを無償でしたい感情または欲求。ただその愛の強さが強いほど時間と空間を共有したいと思うのである。それほど強くないと望んで時間と空間を共有したいと思わない。また共感できるものが全て愛であるとは限らない、知性を使いよく考え判断し(論理的に考えすべてにおいてつじつまがあう答えが出るまで)、その後、知性で出た答えを愛の感情で感じて、知性と愛の感情の一致(共生)ができていれば、それが真理である可能性が高い(この方法が真理の答えを得る最も効率が高い方法だと私は考えている)。
 *愛は無償であり、見返りを求めるべきものではない。
 
 愛(=慈愛)の種類
 1、敬愛(=自分にないが尊敬できる価値観)
 2、自分と同じ価値観
 3、情愛(=同じ人間、同じ自然の一部として共感できる価値観)
 
 
 [復習問題]
 相手の望むことは私がいやなことでした。しかもそれは悪いことです。しかしその友人は、友人ならば愛があるならば俺に協力してほしいと言いました。もし協力しないのなら縁を切ると言われました。さてどうすることが、正しい答えでしょう? 答えを知りたい方は、自分の解答をこちらまでお送りください。私(ネット理想編著人)の考える答えをお返しいたします。

 本能

本能とは、食欲、性欲、排泄欲(おならも含む)、睡眠欲、支配欲、攻撃性(闘争本能)、警戒本能、防御本能、死の欲求(自己破滅欲求)、生の本能(生きようとする気力)など生物が生きる上で(自分が生きるために)必要な先天的に備わっている能力である。そこには他を考えることはふくまれておらず自分自身を守るための自分勝手な欲求(または感情)と考えていいものです)である。例えばケンカが男性に多く見られる強いことがカッコイイ、格闘技が好きだなどは闘争本能によるものである。ただ単に金持ちになって権力をにぎりたいというのもそうである。
 したがってこの本能のままに生きていたら人間(お互いがより快適な条件のもとに共存する存在)は、存在しなくなる。したがってそうならないように愛と知性があるのである。
 そこで本能について述べてみる。人間性や自然全てに存在する法則に反しない本能は満たしてよいのである。しかしそれでも節度を持たねばならない。
 まず食欲、排泄欲、睡眠欲は満たしてよい。しかし一概には言えないが、過剰や少なすぎることは健康によくない。食べすぎもよくない、といって少ししか食べないのもダメである(年齢や体質によって必要量は異なるであろうが、また必要以上の食べ物をとることは健康に悪いだけでなく、無駄に人間以外の生命を奪っていることである)。また寝すぎもよくないし、少ししか寝ないのも健康によくない。また寝る時間も関係する。夜寝ることによって最も効率よく体液が増えて昼起きていることによって熱エネルギーが最も効率よく得れるように人間の体はできているのである。
 警戒本能は悪い人間にだまされないようにするために、あるいは他人から暴力をふるわれたりして危険から身を守るためには適度に必要であろう。
 死の欲求(自己破滅欲求)はもちろん人間は死ぬものであるから、肉体にそういうものがあるのであろう。しかし我々人間は死ぬために生きているのではなく生きるために生きているのである。したがって死の欲求(自己破滅欲求)にもとづく自殺は肯定できない。また他人を悲しませるという意味において人間(お互いがより快適な条件のもとに共存する存在)として自殺を認められない。
 性欲を満たす性行為は人間的(道徳的)にも健康という自然法則からもすべてきではない。性行為は生きていくのに必要がない行為である。必要なのは子どもを作るべき時だけである。
 攻撃性(闘争本能)は、他人から攻撃されて自分の身を守るために必要な本能で、そのためにその場合の相手への攻撃は正当防衛とされるのである。しかし闘争本能のおもむくまま手当たり次第に他(他人や他の自然)を攻撃するのは人間としてまた自然として問題がある行為である。
 ところで権力欲・独占欲・名誉欲・地位欲・金銭欲は、(人間)社会的に生まれた欲求であるが、この欲求がどこから発生しているかで善悪が決まる。金銭欲は、防御本能がその根底にあろう。生きるためにお金が必要でそのためにお金を得ようとすることである。これは正常の防御本能であるし、人間として当然のことなので問題はない。しかしもう一生困らないお金を手に入れているのに、防御本能は満たされているのに異常にお金に執着するのは問題があろう。また十分にお金を手に入れているのに金銭欲を含め我欲である本能を満たす手段としてお金を得ようとするのは問題がある。しかし十分なお金があっても執着することなく人間として、更にお金を得るのに正当な理由があれば問題はない。
 ところで権力欲・独占欲・名誉欲・地位欲・金銭欲を、他人のために使おうと思う、例えば、一般的に自分が強者としての器があり自分より弱者のために得ようとするのならば正しい行いである。しかしちょうどボスざるが群れのすべてを独占し、上から物事を見て自分が優位に振舞うために支配欲が根底にあって権力欲・独占欲・名誉欲・地位欲・金銭欲を満たすために欲しったり、使うのは人間性に反する行いである。

 知性

知性は過ちを犯さないために必要なものである。当然、愛の感情を満たすためであって、知性の悪用はしてはならない。例えば、自分ではそれはその人のためだと感情ではそう思っても行なうことが実際は、お節介かもしれない。したがってそうならないように考えることつまり知性が大事なのである。よく感情的な人間は知性は要らないという、そしてなんでも経験してみなければわからないという当然それが自分だけのことならいいが誰かに迷惑をかけることならそんなことはとても言えない。つまりそういう人間は知性の重要性がわかっていないのである。
 ところで知性については「愛とは ―愛が究極の理性の理由―」でもうすでに十分述べたのだが、知性について書くところなのでここでは知性に関する別のことを説明しよう。説明に際して、「愛とは ―愛が究極の理性の理由―」で述べたことを以下で一部抜粋する。

私は理性の本質(=根本)は、知性ではなく愛の感情であると考えている。」と述べたが、大本には愛の感情がなければ善悪の判断をつけることができないが、詳細の面では知性がないと完全に愛と善悪を決めることができないのである。だから自分が愛であると思っていてもそうでないことがあるのである。したがって愛の感情を分別するために、また不完全である愛の感情を補うために知性があるのである。しかしまた知性では納得がいくのに愛の感情では納得いかないものもあるのも事実である。したがって愛の感情でも知性でも納得のいくつまり一致する(愛の感情と知性の共生する)答えが真理なのである。

 と書いたが、この理性は、りしょうと読むことが適当である、りせいと読むことも可能だろう(カントの考える、広義の意味での理性(りせい)であり、これは理性(りしょう)と同じと考えてもいいだろう。)が今の西洋近代化された日本では一般的ではない。今の日本では一般的に理性(りせい)は、知性(のみ)のことだからである。だから理性(りせい)という言葉自体を私は理に適ったものとは考えていないので理という言葉を使うべきではないので理性(りせい)は言葉とはいえないと考えている。
 理性(りしょう)とは理つまり(愛に基づく)陰と陽の共生(=太極、太一、愛)のことである。理解、理屈、理由、理想等の理もこの意味である。つまり(愛に基づく)陽(感性)と陰(知性)の共生である。この理は、近代化以前に日本にあった理であり、私が考える(私が考えなくても存在する)本当の、本来の理である。
 その後、日本は、科学技術つまり機械を取り入れるために近代化した。日本の近代化(幕末・明治維新期)は、近代化つまり機械をつくる科学(自然法則を数学で書いたもの)を万能だとおもい、科学を構成している数学は万能で、感性を含まない(感性を考慮しない)知性だけで答えをだせるものという考えを西洋から得てそれを鵜呑みにして生まれたものである。そしてその数学万能、知性万能ということから、新たな理の意味をつくりだした。理科、理系、理性の理とは知性(だけ)という意味である。しかし数学という知性も言葉による知性も感性なしには成立しなかったものであり、それは理性(りしょう)つまり理つまり(愛に基づく)陰(知性)と陽(感性)の共生(=太極、太一)を考えればわかることである。つまり数字も言葉も知性だけでなく感性なしには創られないし、また理解もされないものである。具体的には、人間が数字を理解するには、一般には物を使って感性(目の見える人は視覚で、目が見えない人なら触覚)で一、二、三、足す、引く等の意味を理解する。そして理解ができたなら百、千等を想像によって認識できるようになる。同様に数の創造は、感性と知性の統一によって一を決められ、二を決められたのである。だから知性だけでなく感性もなければ数字も数学も生まれないし、また知性だけで数の意味も言葉の意味も認識できないので創られないのである。
 ところで理性(りせい)は日本が近代化に際してカントの哲学を訳す際に造られた言葉のようだが、理性(りせい)という言葉を造らず、たんに知性(知性はもともとの漢字にあり日本で使われていた語)と訳せばよかったのではないかと私は思ってしまう。というのは明治の頃には、本来の理である陰(知性)と陽(感性)の共生(=太極、太一)がいまだ人々の価値観にあったが、戦後になって、西洋に負けたことで完全に西洋を妄信し、西洋で作られた科学技術を万能視し、今まで日本にあった理つまり理性(りしょう)を捨て去り、西洋の考え方である知性だけが理性(りせい)となってしまったからである。
 近代化する以前から和魂洋才ということが言われていた。物質面は西洋の方が優れているので西洋でつまり洋才で、精神面は日本(東洋)のほうが優れているので日本のものつまり和魂でいくべきだという考えである。これは今の状況を考えると完全に当たったといえるだろう。戦後、完全に西洋を妄信して、今に至る日本の現状を見る限り、確かに物質面では科学技術を取り入れて成功したが精神面では完全に失敗した。西洋近代化した結果、モラルが低下したことは自明の理である。その原因は、近代以前と近代以降では理の内容が異なってしまったからである。したがって以下のように価値観が一変したのである。
 
 
近代化以前の理 二元化(以上)つまり陰と陽の共生(=太極、太一)つまり共生(=調和)が理であった。
・二元化(以上)つまり共生
・自分と他者の共生
・感性と知性の共生(一致)
・自然と人間の共生
・強者と弱者の共生
・真理のためのすべての学問の共生
・基本法則と例外の共生
・男と女の理に適った共生
・洋才と和魂(東洋の思想)の共生


近代化以後の理 一元化つまり自分が他を支配することが理となった。
・一元化(他を支配)
・自分に一元化(自分が他者を支配)
・知性に一元化、知性による感性の支配(感性を完全に無視)。だから知性(だけ)では殺人は悪いとは言えないので殺しても問題ないというのが近代。ちなみに東洋医学では考え過ぎることは健康によくないとされている。
・人間による自然の支配(科学技術による自然の操作)
・強者に一元化(強者による弱者の支配、弱者はいらないという考え)
・数学及び物理学(=純粋自然科学)万能主義(人間も含めすべての自然は機械である。)による数学及び物理学及び物理学を使わないつまり機械を使わない科学は真理でないという誤った考え。それは人文科学つまり文科系の学問の否定。そして文科系自身が自ら理系化つまり数学化しようとした。
・基本法則に一元化(基本法則のみで例外を認めない。)
・男に一元化(男による女の支配 そしてその反動として今、女性の男性化が起こっている。)
・西洋(洋魂洋才)に一元化(非西洋は認めない)



参考文献
『岩波 仏教辞典 第二版』(中村元/他編 岩波書店 2002年)
『字通』(白川静 平凡社 1996年)
『字統』(白川静 平凡社 1992年)

 日々の人間の生き方(人間の日々の感情と知性のあり方)

人間は感情の生き物であるといわれるように感情によって生きることが自然であり、感情によって生きるべきである。ここでいう感情は愛の感情のことである。私は、人間は日々、愛の感情を基本にして生きることが人間のあり方であると考えている。
 人間の感情は大きく分けて2つである。それは、愛の感情と本能の感情である。人間の幸せとは愛の感情と本能の感情を満たした時に感じるものと言える。しかし人間は、お互いがより快適な条件のもとに共存する存在であるので本能の感情には満たして善いものと満たして悪いものが存在するのも事実であるので注意が必要である。私は、人間は、日々、愛の感情(=お互いにより快適な条件のもとに共存しよう、したいという感情)で生きることが自然であり、そう生きるべきだと考えている。というのは、人間は、愛の感情(お互いにより快適な条件のもとに共存しよう、共存したいという感情)で日々生きていないと、他(他人や人間以外の自然)のことを考えないので他の愛の感情も本能の感情の両方を十分に感じることができないのと同時に相手に自分の愛を心(思い)で伝えることができないからである。知性中心で生きて愛の感情で生きていない人は言うことはとてもすばらしいのに心に響かないことがある。知性中心で生きると頭をよく使うので頭はいいが我(われ)(愛、心)を忘れているために他(他人と人間以外の自然)との心(=愛)の交流ができにくくなる傾向がある。だから人間関係が希薄になりがちである。愛の感情で生きれば、感情的であるが、愛の感情で生きているから、適度な感情の表現で行い、我(われ)(=愛、心)を忘れて相手のことを考えずに過度の感情を表わすことがない。だから人間(お互いがより快適な条件のもとに共存する存在)関係が壊れるほど感情を表現しないですむのである。しかし本能の感情を基本にして生きている人は、過度に他(他人や人間以外の自然)の本能の感情に敏感で、また相手のことを考えずに我(われ)(=愛、心)を忘れて本能の感情が感じるままに感情を表現しやすいのである。そして当然、本能の感情を中心に生きている人は他(他人、人間以外の自然)の愛の感情を十分に感じることができず、また十分に自分の愛の感情を相手に伝えることができないので愛の交流ができないのである。そのため本能の感情を基本にして生きている人は、人間として生きることが難しいのである。このため人間は、人間(お互いがより快適な条件のもとに共存する存在)として生きるには愛の感情を中心に生きなければならないのである。


*愛の感情で生きることについて詳しくは、性差 陽の男性と陰の女性をご覧ください。