仕事仕事とは?/ 専門家と人間性/ 取引上の倫理/ 自立と自律) / (性差/ 性行為/ 愛と性欲の違い)           

仕事

 職業(=仕事)とは?

仕事とは人間が人間として生きるつまりお互いにより快適な条件のもとに共生するための経済活動である。経済の意味については、第一に「経国済民」または「経世済民」の略で国を治め、民を救済すること。政治である。そして2つめには人間の共同生活を維持、発展させるために必要な、物質的財貨の生産、分配、消費の活動。また、それらを通じて形成される社会関係をいうとされているが、この2つ目の意味が職業(=仕事)に相当するものである。
 現在、一般的に人間社会における仕事の方法(または経済のあり方)は分業という形をとっている。しかし以前は自給自足の生活をしていました。自給自足の生活とは一人の人間が自分に必要なものを一人で得るために仕事をしていた(または家族単位で家族に必要なものを家族だけで行っていた)。したがって一人でたくさんの種類の仕事をしていました。食べ物(農業・牧畜など)を作ったり、服を作ったり、食べ物を料理したりというふうに一人でやっていたのです。しかしこれでは時間がかかるし、よいものも作れません。そこで人間はお互いがより快適に共生することができる(=人間として生きる)ように分業という形をとるようになりました。つまり職業という形をとり分業にすれば、一人の人間が一つの仕事に集中することができるため仕事の能率も仕事の技術も上がるからです。つまりその職業の専門家(プロ)が生まれるということである。ところで分業をとるようになって、最初は仕事の価値に対して物々交換をしていましたが、それでは価値が平等でなく、不便だったのでお金が創られ、お金と仕事の交換になったのです(1)。
 しかし分業という形をとるようになってから全ての人が自分の望む職業に就くことはできなくなりました。(なぜなら仕事の需要(=仕事の必要量)以上に同種の仕事人がいれば、仕事人の数に対して仕事が少ないということで平均してその職種の人には生活するだけのお金(物物交換している時は物)の入る量が減り、生活していけないということになるから。)。したがって仕事に就くということはその(人間)社会でその仕事の代表者になるということである。代表者とは消費者が求める仕事をする能力がある者のことである。だから消費者が求める仕事をしなければ社会から代表者と認められず、仕事はない、それはつまりお金を得られないということである。その(人間)社会とは国における代表(=国民の代表)、または(今や輸出入が当然の世の中であるグローバルな時代ですから)地球における代表としてそのついている職業をしているわけです。英語でwhat are you?を直訳するとあなたは何者ですか?ですがこれはあなたの職業は何ですかという意味にもなる。つまり個人が職業に就くことで自然と個人の社会的地位が生まれ、その人の社会的価値が生まれるのです。したがって国民あるいは地球人の代表として仕事を任されているのですから、国民、あるいは地球人が望むような仕事をしなければならないのです。したがって国民あるいは地球人の代表として仕事ができていない者はその仕事を止めるべきである。また一般的に会社が倒産するのは国民、あるいは地球人が望むような仕事をしないからである。例えばビル・ゲイツは地球人の代表としてIT業界で仕事をしているわけですが、ビル・ゲイツは地球人の代表として本当に国民、あるいは地球人が望む(=需要がある)仕事をしているからたくさんの金が入ってくるのです。したがって国民の代表として恥じないように仕事をしなければならないのです。逆に言えば国民の代表として仕事をしていないことは恥ずかしいことである。
 本来、人間は愛によって存在しているのであるから、金をもらって仕事をするのはおかしい、愛とは相手のためになることを無償でしてやることではないかと思うかもしれない。それは確かにその通りである。しかしそれでは生活ができない。人間として生きる(=お互いがより快適な条件のもとに共生する)ために職業といい分業のルールを決めたのである。つまり分業というルール自体が愛に基づいたものなのである。したがって金をもらいたくなくてももらうのがつまり分業のルールを守ることが愛を持っている人間のすることなのである。お金をもらうことが一つのルールなのである。したがって人間愛にもとづく専門家つまり職業人はお金をもらったら相手のためになることを自分の力を惜しむことなくし全力でしてやらなければならないのである。

*(1)お金の生成の意味・お金の役割
 今の社会における仕事の方法は自給自足ではなく分業である。お金ができる前は分業で物々交換をしていた。しかし物を作るのに時間や材料費が異なり、単価が異なる。また物々交換では交換したい人と交換する人の欲求が合わない。例えば車を欲しいケーキ屋がいたとする。その場合車とケーキを交換した場合ケーキは何百個分に相当する。車一台とケーキ一つでは車屋が割に合わない。もし車とケーキ何百個分を交換してもケーキは食べきれず腐ってしまうだろうし、そんなに車屋はケーキをいらない。もしケーキが嫌いな車屋や今は食べたくないという車屋は、ケーキとなど交換したくないわけである。つまり物々交換では欲しい時に欲しいものが得られないのである。したがって金を作り、自分の職業である自分で作った物を自分で売りたい値段をつけて売るようになったのである。

 専門家と人間性

仕事人は自分の仕事に自信(プライド)を持つことはしていい。しかし自分の仕事が完璧であり、全く過ちがないと考えて消費する国民の意見をまともに聞かない人間は問題であり、改めなければならない。自分は専門家(プロ)だから専門以外(その仕事において素人)の人間より自分の方が全て正しいと思うのは間違えである。仕事においてプロであってもその前に人間であり、人間である以上弘法の筆の誤りではないがミスをすることもあるし、ソクラテスの無知の知のように忘れていたり知らない専門的知識を素人の客から教えられることもあるということを覚えて、謙虚に他人の意見に耳を傾けることをするべきである。その他人の意見を聞いてそれを仕事にとり入れるかいれないかは自分で判断して決めるべきである。他人の意見を参考にすべきであるということである。また消費者も金を払っている以上、国民の代表者であるプロの仕事に対して注文していいのである。他人の意見を聞かない職業人は人間として未熟であり、人間として未熟な人間の専門家と人間として優秀な専門家と比べれば人間性はもちろんのことその仕事の精度も落ちるものである。
 ところで代表者の多くはプロ(専門家)であるが別にその仕事の専門家(=プロフェッショナル)でなくてもいい。ただ現実として消費者が求めるような仕事をする能力を持つ代表者になるためには専門家(プロフェッショナル)かそれに近い能力がなければなれないという傾向があるだけである。
 仕事とは消費する国民のためにあるものだから、国民のために仕事をしない者(国民のためにならない職業についている人も含む)にたいしては文句を言っていいのである。それが人間として生きるつまりお互いがより快適な条件のもとに生きるための方法なのである。(特に競争が少ない・あるいは閉鎖的な職業(例えば公務員(政治家・官僚・裁判官等)・病院等)は特に必要で、競争が多いところは何も言わなければ客が減り、潰れ自然淘汰されていくが、潰させないように言ってやるのもまた愛といえるであろう。しかし言い方にも礼儀がある。相手の気持ちを考える言い方が必要である。批判の仕方に考慮が必要なのは、言い方によって批判された人に様々な不快な感情を生じさせるからである。マスメディアが直接的に批判しないのはこのためであろう)。しかし批判された人も正しい批判であれば言われて不快かもしれないが、事実であり、自分の非を認める謙虚さを持つことが人間のあり方であろう。だから政治家であろうと、医者であろうと、実業家であろうと身分に関わらず国民は正当な文句は人間としてまた人間として生きるために言っていいのであり、またそれが消費する国民の倫理あるいは義務である。だからそれに対して文句を言う仕事人は人間として問題がある人間である。確かに消費する国民は、仕事人も同じ人間だから礼儀を尽くさなければならないが、それは人間としての道徳を持って接すればいい(例えば暴力を振るったりして抗議する事などは人間として、道徳的に問題がある。)ことで、文句を言うことは当然のことです。文句を言わなければその仕事人は自分の過ちに気づかなかったり、また過ちを犯してもそれほど気にしなかったりして、自分の仕事に対する姿勢を改めたりすることはないでしょう。たとえ消費する国民に文句を言われてもそれを受け入れて新たにいいい仕事しようとも思わせるべく消費する国民は仕事人に文句を言い、また仕事人もそれを甘受して自分の仕事に対する姿勢を改めなければならないのです。
 ただ国民は自分たち国民の代表として国民のためにいい仕事をしている人には、どのような職業の人であろうと感謝・尊敬するのが当然である。一般に医者や政治家、教師など知的人間(先生と呼ばれる職業)に対してはありがとうございましたなどと感謝・尊敬するが、本来、仕事人(人間性に反する職業以外の仕事人)全てにそういう感謝・尊敬の念が必要なのである。
 この職業人の倫理と消費する国民の倫理の両方が成り立たなければ人間社会はよくならいし、また発展もしないのである。言うまでもないが一般的に国民の全ては例外を除いて皆、仕事人と消費する国民の二役をやっているのである。具体例を上げるので考えてみてもらいたい、ある病気になり長く治療を受けたが治らない、しかし長く治療をうけたから情がわいたからと言ってその医者ではどうにもならない病気なのにその病気を治すためにあなたは通いますか?もしその医者に通いつづけてその医者が治し方が迷っていてその医者に医療ミスをされて殺されたらどうしますか?もしあるメーカーの食品を長く食べていたとしても一時毒が入っているとわかったら誰でも一時、そのメーカーの食品を買うのは止めるはずです。

 取引上の倫理

仕事は国民のためにするものである。したがって下請けであろうと、下請けを使っていようとすべては国民のために仕事をしなければならないのである。永年お付き合いで情が生まれようとも悪い製品を取引している会社とは取引を止め、国民が喜ぶいい製品を扱う会社と取引をすべきである。しかしその場合は取引をする前に良くなるように忠告をしてそれでも直らない場合に新たな会社と取引すればよい。そしてたとえ永年お付き合いで情があってもその会社の製品が直らないで新たな会社と取引する場合は仕事とは国民とためにするものであり、あなたのところの製品は他の製品と比べて劣っているので止めた、と必ず理由を言うのである。マスメディアの一部の政治家への対応、政治家、官僚の情やしがらみゆえ廃止することができないゼネコンや特殊法人を見るとこのことがわかる例である。
 現在一般に下請けは自分達を使ってくれる会社には頭を下げる風潮がある。しかしこの風潮が過ちである。下請けもそれを使う会社の人間も同じ人間であり、また目的は同じ国民のために仕事をしており、当然分業制のために商品を買うほうと売るほうが出てくるのは当然のことである。だから下請けであろうとそれを使う会社の人間であろうとただ同じ人間として礼儀を使えばいいのである。下請けは自分たちの仕事に自信があるならそれを自信を持ってそれを使ってくれる会社に主張すればいいのである。そして不正に頭を下げさせることや賄賂を求めたりする会社とは取引を止めるべきである。また下請けを使う会社の人間は、不正に頭を下げさせることや賄賂を求めたり、また下請けの人間が頭を下げたら、止めさせ、また賄賂をくれたとしても断り、同じ、人間であり、共に関係を持って国民のために仕事をしている同志なのだということを伝えるべきである。賄賂を要求して得たからその会社を使うという発想は人間(金がなくともいい製品を作っているところがあるのに、金があり賄賂をもらうためにいい製品を作っていないのにそこの製品を使い、また賄賂をもらうことで自らも利益を得る、全くただの強者の論理である。)があるとしての行動ではない。賄賂は法的に問題があるのも当然のことである。この問題も政治家、官僚等に見られる例である。

 自立と自律

心身ともに健康な人つまり健常者にとって自立と自律といった場合、一般的には経済的な自立・自律のことであろう。しかし経済的自立・自律さえすればいいというのなら中には金のためならなにやってもいい、他人を陥れてもいいと考えてしまう拝金主義者が生まれてしまうだろう(まさに最近までの経済至上主義の日本ではそうであったであろう)。そうならないようにするには、経済的な自立・自律だけでなく経済的自立・自律を含めた人間的な自立と自律つまり倫理・道徳に基づく自立・自律が人間にとっての本当の意味の自立・自律であろう。しかし人間の存在意義が人間として生きることつまり倫理・道徳を守ることにあるとはいえ、人間にはやはり倫理・道徳以外に他の自然同様、存在する自然法則が存在する。例えば死すべき存在だということである。したがってできる限り、限りある生を全うすることが必要であろう。それには健康の維持の方法(養生法つまり保健の方法)つまり自然法則にしたがって生きることも重要であろう。以上は、あくまで健康な人間においての自立と自律の話であって、健康でない人にとってはそうではない。
 それでは、健康でない人の話をしよう。心身が病(先天的疾患、後天的疾患)の人のすべてがそうである(病の軽重があるから)とは言えないが心身が病である人の中には経済的にも道徳的にも自立も自律もできない人がいる。したがって経済的にも道徳的にも自立も自律もできない人にそれを要求することは無理なことである。だからそのような人が、経済的に自立することを含めた道徳に反することをしたとしてもその人は道徳を守ろうとしてもできないのだということを理解して温かい目で見てあげることが理であろう。しかし当然、心身が病の人の病が治せるものであるならば、治すことが理である。当然、病により自立・自律できない人は、家族を中心に国や地域の人々が温かく支えてあげることが倫理である。ただ忘れてはならないことは、被害者にとっては障害者に殺されようと凶悪な人間射殺されようと被害の大きさは変わらないということである。しかし心身が病の人は好き好んで自立も自律しないのではないということである。もし好き好んだとしても自律も自立もできないのである。自分一人で食事も取れず、トイレにも行けないそういう人間がいることを忘れてはならない。確かに人間は知性だけで理解しても感性で理解しなければ理解できないかもしれない、しかし実際経験しなくてもそういう人になることを想像して感性で理解することはできるのではないだろうか。
 それから例外ついて述べておかなければならないだろう。時には自立と自律が人間にとっての基本原則だとしても心身が病の人のように自立も自律もできない人もいる。このように基本原則から外れた許される正当な例外というものは他にもあるだろう。しかしあくまで許される正当な例外はまれであり、基本は基本原則を守って生きなければならない、そのことを忘れてはならない。
 それから国は人間の集団であり、言うまでもなく国も自律、自立しなければならない。日本はアメリカの51番目の州つまりアメリカの従属国と言われているが、これは改めるべきであろう。また国にも自立・自律できる強い国と自立・自律できない弱い国があることを覚えておくべきであろう。そしてそれは国土の大きさと必ずしも比例しない。

性について

英語で性をセックス(sex)というが、これはラテン後のセクサス(sexus)が語源である。セクサスを動詞にすると、セコ(seco-)「分ける」「切り離す」という意味になる。つまりもともと男女は一体であることが理想であり、それが男性と女性に分けられたのである。そのため男と女はお互いに異質な存在であるのに引かれ合うのである。だから男と女は一つになることが本来のあり方(=自然)であり、そして男と女が一体になることで人格が完成するのである。
 ここでいう男と女が一体になるとは、男女がお互いに、より快適な条件のもとに共存することである。つまり人間として生きるということである。男と女は人間として生きる(=男と女がお互いに、より快適な条件のもとの共生する)ことで人格が完成するのである。
 それは、男は女がいるから異性(異質)の女らしさを知り、また自分の男としての男らしさを知る。女は男がいるから異質である男の性質を知り、また自分の性である女らしさを知る。当然、男の性質には人間としてすばらしい面もあれば、悪い面もある。また女の性質にも人間としてすばらしい面もあれば、悪い面もある。つまり男にはない女のすばらしさと女の悪いところがあり、男にも女にはない男のすばらしいところと悪いところがある。だから女性は男性の真似をしても男性にはかなわないし、美しくない。また男性が女性の真似をしてもかなわないし、美しくない。なぜならそれは自然ではないからである。一方女性は女性として生きることが自然であるので美しい。また男性は男性として生きることが自然であるので美しい。だから男女がお互いにより快適な条件のもとに共生する(=人間として生きる)ことで自分にはない異性のすばらしいところ、また自分のよくないところを知り、いつも認識することで、悪い部分はよくなり、よい部分(性の長所)はそれを認識することで自信を持つためさらに長所を伸ばすことができるであろう。また男性より女性が優れている面では女性が行って男性を助け、女性より男性が優れて面では男性が行って女性を助けて、人間として生きる(お互いにより快適な条件のもとの共生する)。これが人間としての男と女のあり方であろう。だから男性は女性がいるから男性として生きようとする(男性の役割を果たすそうとする)し、そして女性は男性がいるから女性として生きようとする(女性の役割を果たすそうとする)のである。それに女として生まれたのに女として生きないのはどうかと思う。女として生まれたからには女として生きることが生きる目的だと思う。男として生まれたのに男として生きないのはどうかと思う。男として生まれたからには男として生きることが生きる目的だと思う。
 ところでオスとメスと男と女の違いは、オスとメスには人間性はないが、男と女には人間性がある。男とは人間性+オス性であり、女とは人間性+メス性である。当然男と女は人間であるのだから人間性に反するオス性とメス性を出すことは許されない。利己的にのみ生きる存在であるからだ。したがってオスとメスでは人間(お互いにより快適な条件のもとに共存する存在)として生きることはできない。男と女だから人間だから人間として生きられるのである。

 性差 陽の男性と陰の女性

それでは男女の性質(性差)を説明する。陰陽説は男女の真理を説明している。陰陽説では男は陽(火)、女は陰(水)とされる。これは自然科学的に言えば男性ホルモンが陽(火)で暖かいからであり、女性ホルモンが陰(水)で冷たいからである。男性ホルモンとは性ホルモンを暖める男性(暖性)ホルモンであり、女性ホルモンは冷す働きを持つ性ホルモンを助けて体を冷すという意味から女性(助性)ホルモンというのではないかと私は考えている。(陰陽説の陰陽であるが陰と陽は元々一つでそれが分かれたもので、分かれる以前を太極(たいきょく)とか太一とかという。太極拳の大極がこれである。)
 男性が陽(火)というのは、女性に比べ男性は火のように熱が強いので感性・感情(愛の感情・本能の感情も)も熱いので何事も女性に比べて敏感ゆえに能動的である。したがって何事にも男は行動的(活動的)であり、積極的であり、進歩的であり、感情的(いい意味で言えば情熱的・悪い意味で言えば執着)であり、明るい(=陽気である)、あたたかい、良くも悪くも何事にも熱すぎる(熱しすぎる)、気が強い(気も熱の一部である、気が強いから、よく言えば、意見を曲げない信念を突き通すが、悪く言えば、自分が悪いあるいは未熟でもそれを認めず、それどころか他を非難し攻撃(男性は女性に比べ攻撃的である。)して他人を傷つけたりする人もいる。)、熱血である。また火は一時的に燃え上がる力は強いが、一方、熱っしやすく冷めやすいという性質も持っており、そのため変化もしやすいのである。これらは男性にとって自然なことなので、男性は無意識にしろ意識的にしろそれを好み、また無意識にしろ意識的にしろこのような振る舞いをとる傾向にある。だから男性にとってこれらは自然なことなので女性より優れているのである。ただ女性より優れているとはいえ、これを人間として愛のために使用すればよいが、人間性(お互いにより快適な条件のもとの共存性)に反する本能を満たすためのオスとしての行動に使ってはだめである。また熱しやすく冷めやすいというのは、好奇心が強いのですぐ何か新しいことに手を出すが、すぐ飽きて止めてしまい中途半端で終わってしまうというのが一般的な解釈であろうが、必ずしもそうではない、一時、あるものを理解するために熱中してもある程度物事を理解したら、いつまでも既存のものにこだわらず更に進歩するために冷静になって今までのものを改革し創造するとか次の分野に進むというふうにも解釈することもできるのである。知性は女性の方が優れている(男性は、女性と比べて熱が強いため感情的・行動的なのでじっとしていること(動かないこと)が女性に比べて得意でない傾向だからであろう。)が、創造的知性は男性のほうが優れていると言われる(それはいったん知性に熱中したらその知性に対する熱中する力(感情的に求めるゆえに生じる集中力)は強いということと自ら進んで(積極的に)考える力(つまり考えようとする力、欲求)が強いために女性よりも新たな発見ができやすいということであろう。女性は受身的だから受身の知性つまり他から受ける知性、つまり既存の知性(例えば学校で受ける教育)、伝統的な知性を受け入れることが得意である。つまり詰め込み教育は男性より女性に向いている(女性のほうが優れている)。女性が男性より知性的というのは冷静ゆえに受身の能力が男性より優れておりその欲求も男性より強いので男性より知識を多く受け入れているつまり多く記憶しており、そこから物事を判断できる。判断する場合、判断材料(知識)の量が多ければそれだけ正しい答えを導きやすいのが事実である。しかし既存の知性(知識)、例えば、自然科学の見解などが現時点で完全でない場合(あるいは身近で言えば、身近なものであるがそのことに関する自分自身の見解を持っていない場合)、自ら考えて真の答えをださなければならないのである。受身の知性だけではだめだ(対応できない)ということである。だから女性にも男性ほど優れていないとはいえ自ら考えることが必要なのである。一方男性は、十分な知識がないといくら考えたところで正しい答えを導き出すことができないので受身的に知識を得ることが必要であることを認識して受身的に知識を得ることが必要である。)。つまり長所も使い方次第では短所になり、短所も使い方によっては長所になるということである。肉体上で見ると男は火(熱)が強いので熱の性質である上に上がるという性質から男性は身長も上に上がるので女性より高い、また熱が強いので筋肉も発達しやすい。女性に比べて脂肪等体液が少ないのも熱が強いために燃焼させるためである。そして男性の象徴である男性性器も熱の上に上がる性質から女性器と比べて上に発達している。また男性はエネルギーを燃焼するのが女性より早いので熱エネルギーは女性に比べ強いが、早く液体のエネルギーを消耗する分、一般的に寿命が短い傾向である(しかし男性にあった養生法(男性であれば養生法の基本は同じであるが、同じ男性でも体質・年齢等で異なるので注意が必要である。ここで述べているのは、東洋医学の養生法)をすれば男性も女性と変わらない平均寿命となるのではないだろうか?)
 女性は陰(水)である。陰(水)は冷えているので、感性・感情的(愛の感情・本能の感情も)に冷静であり、何事も男性に比べて鈍感ゆえに受動的である。したがって女性らしさとは、何事にも冷静で、それゆえにおとなしく、控えめで、(冷静ゆえに)細かなことに気がつく、冷静ゆえに知性的、従順、冷静ゆえに鈍感なので我満強い(しかしそれゆえに子どもを産めるという。男性では子どもを産めない、男性は失神してしまうといわれるのは、男性は敏感ゆえにオーバーヒートしてしまい我慢できずに失神するためであると思われる。)、柔軟(適応力がある)、善い意味で受身的で、守備的で、保守的(伝統を重んじる)、知性的である。悪く言えば、消極的(よい言い方をすると控えめ)で、暗い(陰気臭い)、陰湿、陰険、陰謀(悪事(人間性に反する利己的・本能的なこと)を行うための策謀 知性の悪用)を企て実行する、冷血、冷酷、冷淡等である。また善くも悪くも冷厳である。したがってこれらは女性にとって自然なこと(つまり女性らしさ)なので、女性は無意識にしろ意識的にしろそれを好み、また無意識にしろ意識的にしろこのような振る舞いをとる傾向にある。だから女性にとっては、これらは自然なことなので男性に比べて優れているのである。ただ男性より優れているとはいえ、これを人間として愛のために使用すればよいが、人間性(お互いにより快適な条件のもとの共存性)に反する本能を満たすためのメスとしての行動に使ってはだめである。例えば『老子』に「上善水の如し」という言葉があるが、これは、水は攻撃されても何にも反抗しなく、柔軟に対応して、マイペースを維持し続けるという、何にも動じない水のあり方が最も善いというものである。しかし悪く解釈すれば、他人からいくらそれは善くない改めるべきであるといわれても、そうですねと意見を受け入れたふりをして実際は本能の固まりで本能的な行動を維持し続けることをする、ともいえるわけである。とくに女性は、水の性質であるので保守的で既存のものを維持し、自ら新たなものを求めて、変化したり、創造する力は男性よりも劣っている。したがって一般的に女性の場合、男性に比べて鈍感なので何か感情的に強く動かされる大きな出来事がない限り、悪い価値観も善い価値観も育った家庭環境で得た価値観をなかなか変えようとしない傾向がある。つまり長所も使い方次第では短所になり、短所も使い方によっては長所になるのである。肉体上では、女は陰(水で冷やす性質)が強い(多い)ので水(冷え)の性質である下に下がることから女性は身長も男性に比べて伸びにくいので低く、冷えが強いので筋肉も発達しにくく、そのため脂肪等体液は燃焼されないために太りやすく、また男性に比べ冷え性である。そして女性の象徴である女性性器も水(冷え)の下に下がる性質から男性器のように上に上がっていない。寿命は液体のエネルギーを燃焼させる力(熱エネルギー)が弱いので液体のエネルギー(体液、熱エネルギーの原料)を蓄積しやすくそのため男性より動きは遅く、力も弱いがエネルギーの消費が少ない、そのため男性より寿命が長い傾向にある。
 男女間でいうと男は陽(火)であるから自ら積極的に相手に自分を認めてもらってつまり共感してもらって共生しようとするのに対して、女性は受身的で相手を受け入れてつまり共感して相手に嫌われないように行動する存在である。しかし男女のこの関係が成り立たない場合がある。それは人間として生きていないつまり男女がお互いに、より快適な条件のもとに共生できていないからである。したがって男女がお互いにより快適な条件のもとに共生するつまり人間として生きられるにはどうすればよいかを考え話し合い、人間として生きるよう努力するのである。例えば男は気(=陽気、熱)が強いので本能的な人間は自分が悪くても悪いと認めて折れない傾向があるし、女は冷え(=陰気)が強いので気(=陽気)が弱いので嫌なことや間違ったことをされても何も言えなくて、自分から相手に積極的に言えない傾向(表に現すこと(=表現)ができない傾向)があるが悪いところはあなたのここが悪いと男にも言うべきである。陰と陽で完全になる。男(=陽)の欠点は女(=陰)が補う。女(=陰)の欠点は男(=陽)が補う。ところで男は陽であることが本来のあり方であるが、それさえあれば完全ではあるという考えは間違いである。だから男が男らしく生きれば完全であるというのはあやまちである。また女は陰であることが本来のあり方であるが、それさえできれば完全ではあるという考えは間違っている。だから女が女らしく生きれば完全であるというのはあやまちである。それは男性にも女性ホルモンがあり、女性にも男性ホルモンがあるからである。また男性にも女性ホルモンがあるから女性らしさに共感できるし、女性には及ばないが女性らしさを行う能力もある。女性にも男性ホルモンがあるので男性らしさに共感できるし、男性には及ばないが男性らしさを行う能力もある。異性ほど異性のすばらしさを実行することはできなくてもそのすばらしさを知り、自分も異性のすばらしさを得ることが大事である。そうすれば人間はより完全な人間となることができよう。
 男女とも男女の長所短所を知り、男性の長所を生かせるものは男性も女性も男性に頼り、 女性の長所を生かせるものは男性も女性も女性に頼るべきであろう。下手なものがやるより上手なものがやる方が結果は、全然いいはずである。つまり男女はお互いに助け合って生きるということである。そして男性は自分(=男性)の短所を知り、自分にない女性のすばらしさを知り、つまり女性に学び、人格を完成させていくのである。女性もそうである。しかし男性は、女性らしさは女性には及ばない、また女性も男性らしさは男性には及ばないのである。だから男女は助け合って、欠点を補い、人格を完成させていくのである。
 陰陽説では水は火を剋す(水は火を消すから火に勝つ)とされ、また柔よく剛を制すともいわれやはり陽(火)である男は陰(水)である女性には勝てないのが自然であろう。しかしこの場合は女性が本能の悪い部分であるメスの部分を出し、男性も本能の悪い部分であるオスの部分を出し合って戦った結果ではないと思われる(一般的には肉体的に男性のほうが強いので男のほうが暴力をふるえば女性に勝つであろう)。男女ともに本能の悪い部分であるオス・メスの部分を抑えて男女が愛によって共存した場合、女のほうが上手(うわて)だということであろう。つまり男は陽(火)が強いので何事も気(=陽気)が強く感情的で積極的で女をひっぱっていっているよう思うが、実際は女はついていっているように見せながら男をうまく冷静にさせてコントロールして生きているということである。そしてまたこれが男女間で人間として生きるつまり男女がお互いにより快適な条件のもとに共生するための理想であり真理ではないだろうか。もし人間として生きていないで、男(火)が本能のままに生きれば女(水)をお湯にしてその後、蒸発して消してしまうであろう。また女(水)が本能のままに生きたならば男(火)を消してしまうであろう。これでは人間として生きることはできない。男女が人間として生きるつまりお互いにより快適な条件のもとに共生するのであれば水(女)は火(男)が過剰に燃えすぎないよう調節し、火(男)は水(女)が冷えすぎないよう調節する。これは男女間の真のあり方であろう。つまり男女が助け合ってお互いの短所を補いあって生きれば、男の欠点、女の欠点が消え、男と女は長所だけになるつまり完全になるということであろう。
 ちなみに男と女の基本は以上であるが、男の中でも火の強さが異なり、女でないので女ほど水の性質が強くないが水の強い男性(女っぽい男性)もいれば、女の中でも水の強さが異なり、男でないので男ほど火は強くないが、火の強い女性(男っぽい女性)もいる。つまり男と女という基本はあるが、男でも女でも個人(の体質)によって火の強さと水の強さは異なるのである。また年齢(その年齢の基本はあるがその人の歳のとり方によって多少異なる)によっても異なる。
 最後に、もう一度述べます。男女、関係なく正しい(あるいは優れた)人間は、男女のすばらしい性質をそれぞれ持っているであろう。人間として優れている(あるいは正しい、善い)男性は、人間として優れている(あるいは正しい、善い)男性らしさだけでなく人間として優れている(あるいは正しい、善い)女性らしさ(女性には及ばないが)も兼ね備え、また人間として優れている女性は人間として優れている(あるいは正しい、善い)女性らしさだけでなく人間として優れている(あるいは正しい、善い)男性らしさ(男性には及ばないが)も兼ね備えている。人間として優れた(あるいは正しい、善い)男女の性質を兼ね備えている人間が優れた(あるいは正しい、善い)人格を持つ(あるいは正しい、善い)人間であろう。

*その他、火(陽)は上がり、水(陰)は下がることから火は軽い、水は重いと言える、そのことから、男性は火(陽)であるので、軽い、軽々しい、軽はずみである、軽口、軽快、軽視しやすい、軽薄、軽忽・軽骨(きょうこつ)、軽率、軽笑しやすい、軽躁、軽侮・軽蔑しやすい、軽慢しやすい、軽妙、身軽、剽軽(ひょうきん)、心軽し等と言える。それに対して女性は水(陰)であるので、重い、重々しい、重んじる、重厚、厳重、尊重する・敬重する、自重する、慎重、口重い、手重、鄭重・丁重(ていちょう)等と言える。

*養生の方法として清心寡欲ということが言われる。清心寡欲とは、欲望を抑えて清い心(道徳的に正しい心)で生きれば、健康で長生きできるという意味である。なぜ欲望を抑えて清い心で生きれば健康で長生きできるかといえば、不必要な陰と陽を使用しない(無駄使いしない)からである。欲望いっぱいで無駄に陰と陽を使えば陰と陽のバランスが大きく崩れ病気となりやすいからである。ここでいう欲望は、主に本能の欲望のことで、愛の感情は含んでいないと考えている。愛の感情は、確かに、愛を実現しようとする欲望ともいえるが。ただこの愛の感情だが、それは執着を伴わないものでなければならない。愛の感情の執着(ただひたすら愛の対象に対してお互いにより快適な条件のもとに共生しようと感情的に過度に燃え上がりすぎること、燃え上がりすぎるから執着するのである。)は、熱を余分に使い、その結果陰と陽を無駄使いするので、抑えるべき欲望の中に入る。 しかし愛の感情で生きることは、陰と陽を無駄使いせず、むしろ健康維持に必要不可欠なことであると考えている。また何かを為そうという場合にも、愛の感情で生きることが最もよいと考えている。愛の感情で生きるとは具体的には、愛の感情、愛への熱意、情熱で生き(この愛の感情は冷静さ(その場の空気や他人の気持ちを感じとることができる等受身の能力)を兼ね備えているので)、必要なら愛を実現するための知性をいつでも使えるそういう状態であると考えている。そしてこの愛の感情で生きていることを太極の(心理)状態(愛に基づいて陰と陽が共生している状態 愛の理に基づかない生き方では、陰と陽は共生できないので、陰と陽が共生している太極という状態は存在しないであろう。愛の陰と陽が一体化して共生しているのが太極の状態である。)と考えている。だから太極の(心理)状態(愛の陰陽共生状態)では、臨機応変に陰気で生きたり、陽気で生きたり、また陰気と陽気の両方を同時に同量使って生きたり、どちらかを多く使って生きたり等が自然とできるのである。 ちなみに愛の感情で生きること、太極の心理状態と清心寡欲は、同じであると私は、考えている。愛の感情で生きること、太極の心理状態、清心寡欲は心で生きることである。したがってこの心理状態を無理につくるのは無理(理が無い)であり、つまり不自然である。愛の感情で生きること、太極の心理状態、清心寡欲は、心の自然の状態であり、したがってそれは心地よい(自分自身が快適な)はずである。したがって愛の感情で生きること、太極の心理状態、清心寡欲ができないのであれば病気である可能性もあり、その場合は治療が必要の場合もある。

 性行為

性行為(セックスやマスターベーション等)は、すべきではない。なぜなら人間を正常な人間として生きられなくさせるからである。

セックスという行為は人間の正常な「精神」状態を壊すものでつまり心身の健康を壊すもので、人間の健康状態を壊し、つまり人間を正常な人間として生きられなくさせるのである。それは、「精」を消耗することで「神(しん)」が正常に働かなくなるからである。「精神」の「精」とは、人間の生命の根源の力のことである。また「生殖のもと」という意味があります。これはセックスすると精が消耗されることを意味しています。

一方「精神」の「神(しん)」は、広義の「神(しん)」は、精神・感情・知覚・運動などの、すべての生理活動を主宰し、それを体外に表現するものであるとされます。例えば人体の形象および顔色・眼光・言語の応答・身体の動きの状態などは、すべてこの広義の「神(しん)」の範囲にはいる。狭義の「精神」の「神(しん)」とは、精神・意識・思惟活動を指している。したがって正確に「精神」とは、人間の生命の根源の力である「精」が正常な状態で十分あれば「神(しん)」である生命活動を正常に、健康に行えるという意味なのです。現在一般的に日本で使われている「精神」は「精神」の「神」の「狭義」の意味を表しているだけで本来の意味の「精神」を完全には表していない不十分なものなのです。

したがって正確な「精神」論から、精を消耗するセックスはしてはならないことなのです。 精を消耗すれば正常な神の状態でないので正常な精神状態ではいれないのです。「精」を使い異常な「神(しん)」の状態では、心身が正常に働かなくなりますが、最も重大なことは人間を人間たらしめる愛の感情を正常に感じることができなくなり、また正常に知性を使うことができなくなります。

また性行為で消耗するのは精だけでなく「元気(西洋医学的にはいうと体全身を温める熱エネルギー)」も消耗すると東洋医学では考えます。そのためセックスをしなければ、人間として生きられ、また心身ともに元気で充実して生きることができるが、当然、セックスして元気と精を消耗して正常な神をもたない異常な「精神」状態の人となってしまいます。したがって正常な「精神」状態の人と比べれば格段の差で、行動の結果の成果が上がります(元気は神の働きにも影響を与えます)。

精神分析学者のジムクント・フロイトは、性欲は、人間の生命の根源の力であるといい、性欲を抑えて(つまり性行為をしないで)性的エネルギーを社会的・文化的な活動に使えば、性的エネルギーは強いのですばらしい結果が得られるという「昇華」の考え、また多くの成功者を調べたナポレオン・ヒルが成功者の多くは性的エネルギーを抑え、他のものへエネルギーを転換したことで成功したと書いていること、これらは東洋医学の「元気」「精神」論の意味と合致するのである。また今でこそ、避妊具や避妊薬、中絶法があるから必ずしも貧乏人の子沢山には当てはまらないと思うが、かつて言われていた「貧乏人の子沢山」と言われていたものはセックスをたくさんして「元気」「精」を無駄に消耗してしまい、神が正常でないのであまり働かず、また働いても成果があがらず、そのため子どもはたくさんできるが、仕事ができない、それゆえ貧乏人という意味であったのであろう。このように性行為はとてつもない大きなエネルギーを消耗させ、健康に悪く、人間としての生活を妨げる害悪のものである。

したがって東洋医学では、性行為をしすぎたり、子どもをたくさん産んで、人間の生命の根源の力である「元気」「精」を消耗し過ぎると、若くして衰え、老け、不妊症になったり、また免疫力が衰えるので病気になりやすく、つまり寿命が縮まると考える。ところで先天的な「元気」「精」は両親から得られますが、後天的には食物から「元気」「精」を得ることができます。日本人の平均寿命が世界第1位の原因は、経済的に優れ、物質的に優れ食物から後天的に「精」「元気」を得られることと日本人の生涯の性行為の回数が世界的にとても少ないことが大きな要因で間違いないでしょう。経済的に優れ、物質的に優れてもセックスが多い、多くの欧米の国々では、それほど寿命は長くないからです。またこの「元気」「精神」の考えを持っている中国ですが、中国は最近経済的には発展してきていますが、それも一部で貧富の差が激しく、物質的に恵まれない人が多くいるために十分な栄養を万人が取れないためであると思います。

しかし最近の日本でも欧米と同じように自然科学万能主義の西洋医学が主流となっており、自然科学(科学技術)的には欲望のままのセックスは問題ないと思われており、それが一般化して来ており、人間の生命の根源の力である「元気」「精」を消耗し過ぎる傾向がないとは言えません。したがって今の若者は今の老人ほど長く生きられないかもしれません。現在西洋医学の不妊症対策がありますが、東洋医学もあるのでそれを試すのもよいでしょう。

したがって子どもをつくる目的以外のセックスは本来すべきでないのである。

性病は、正式に付き合う付き合わないに関わらず同時期に(間隔が開かないで)複数の異性とセックスする場合に生じる。これは医学的にも歴史的にも証明されている。性病は死に到るものもあるし、生きていても病気と共生しなければならない場合もある。また不妊症になる場合もある。また子どもに遺伝し、子どもが一生苦労することもある。例えば現在でも売春婦の性病の多さはとても多いのである。

しかし同時期にという定義は誤りかもしれない認識が生まれました。それは子宮頸癌に対してです。それは最近、子宮頸癌の最も重要な原因はヒト・パピローマ・ウィルスというウィルスの感染ということが自然科学によって解明され、複数のパートナー(同時期でなくても)とセックスをすると何倍もの確率で子宮頸癌になりやすいとされているのである。

子宮頸癌はヨーロッパでその昔、ビーナス病などと呼ばれていたそうです。これは、性交経験のない修道女や尼さんには殆ど発生しないが、娼婦や放蕩主人を持つ婦人に多いことなどが分かっていた為です。古くから性行為と何らかの関連のある癌とされていたわけです。そして、近年の研究で、子宮頸癌の患者から高率にヒトパピローマウイルスが見つかるようになり、性行為との関連が自然科学的にも確認されるに至りました。ただし、子宮頸癌患者の全てからヒトパピローマウイルスが見つかるわけではありませんし、ヒトパピローマウイルスに感染すると必ず子宮頸癌になるわけではありません。しかし、発症メカニズムへの関与は明らかであり、このことはリスクの軽減の参考になると思います(Webページ「ヴァーナル健康&美容/婦人科」から引用。社会科学の東洋医学と自然科学の西洋医学を区別するために「科学」を「自然科学」に変えた。)

子宮頸癌の原因には、いぼを作るウイルスの1種、ヒトパピローマウイルスが深く関わっていると考えられています。このウイルスはセックスによって感染します。したがって、子宮頸癌の危険因子としては、セックス経験が多い、セックスパートナーが多い、セックスの経験が長い、などがあげられます。また、初めてセックスを経験する年齢が低くなるにつれ、10代、20代の若い方にも子宮頸癌が増えてきています。1度でもセックスをすれば、ヒトパピローマウイルスの感染の機会があり、それとともに子宮頸癌になりうるということです。症状は初期ではほとんど見られませんので、定期的な検診がとても重要になってきます。(Webページ「シリーズ女性の健康 子宮癌の話」(甲府共立病院産婦人科)から引用)

以上のことからわかるように、セックスはある意味相手への傷害行為であると同時に自分への自傷行為でもあるのでこのことを注意してもらいたい。また自分の元気と精の状態は子どもに遺伝することも覚えておいていただきたい。不十分な元気や精の親からは健康に問題のある子どもが産まやすいのは東洋医学で証明されている。そしてもし悪いことをすれば因果応報となることを覚えておいて欲しい。知性で因果応報を知っても感情で理解しなければしてしまうかもしれないが、因果応報が起こってから後悔しても無駄である。

*また東洋医学では性行為をしすぎると(またしすぎなくても泌尿器形・生殖器系が体質的に弱い人は)、以上であげた他に、性欲異常亢進、月経不順、月経前緊張症、月経痛、子宮内膜症、遺精、脱毛、不眠症等泌尿器系・生殖器系を中心とした病を生じやすくしてしまう。したがって東洋医学では、健康のためには性行為をすべきでないとされている。そして性行為しないことが寿命を延ばすとされている。

*東洋医学では癌も含めすべての病は陰と陽のバランスが大きく崩れた時に生じるとされています。一般的に陰とは体液等物質で冷す役割をします。陽は熱で体を温める役割をします。つまり陰陽のバランスとは寒・熱のバランスのことです。

*西洋医学の最近の研究では、一般的にはヒトパピローマウイルスは自然治癒され、消えるようだが、なかには自然治癒できない人もいるらしく、その場合は子宮頸がんになる危険性があるようだ。ヒトパピローマウイルスを自然治癒できないのは、東洋医学で言う陰陽のバランスつまり寒・熱のバランスの崩れた女性であろう。

*東洋医学では、二十歳以下の初産婦は、生殖器官が十分に発育していないために難産あるいはその他の併発症をいつも(あるいはしょっちゅう)発生する。と考えるのに対して西洋医学では、東洋医学に反して性行為の無害性を説いているが、同様に十代の妊娠も肉体的にはほとんど問題ないとしている。それから こちらも御覧になってください。

 愛と性欲の違い

愛と性欲は別物である。しかし性欲も愛があるから感じるのだと思う人もいる。そして中には性欲も愛の一部だと思う人がいる。それは愛も性欲も感じるのは心(前頭葉(大脳新皮質)と心臓等)であり、つまり意識だからだ。性欲である本能の脳である視床下部や生殖器からの伝達を心で感じる。つまり本能の脳と愛の脳はつながっているのである。だから愛と性欲を同一と見てしまうことがある。しかし愛と性欲は別のものである。愛は性欲と異なり、心そのもので生まれ、心そのもので感じるものである。つまり純粋な愛は心だけしか作用してないものでつまり感じるのは愛だけであり、性欲を相手には感じないものである。もし性欲を感じるのであれば、それは相手を100パーセント純粋な愛だけで見てはいないということである。